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8.蟻地獄
逸彦が部屋から出ていった後、鸞は窓から眼下に広がる西武鉄道の線路を眺めていた。西武池袋線と西武新宿線が交差する、埼玉と東京の県境に位置する地方都市。ターミナル駅となる所沢駅には何本もの線路が集まり、駅ビルをはじめとして商業施設や大手塾などの教育施設なども充実している。
「大丈夫か、鸞」
押し黙ったままの部下に、久紀は声を掛けた。
本来ならとっくに本店に戻って薬物銃器対策課の課長心得か、管理官にでもなっていておかしくないのに、この無自覚お色気爆弾お姫様は、煩雑に暴力団が絡み合う所轄での係長職から頑として離れようとしなかった。
「課長こそ。マル暴のイロハを仕込んだ師匠が手を汚しているかもしれないんです、大丈夫なんですか」
フッと口元を解して、久紀が鸞を見下ろした。大丈夫どころか、悪なら逮捕するだけだという強い闘志がその目には漲っている。
鸞は眩しそうに目を細めて、男前すぎる上司を見上げた。
「俺はそんなメランコリックにはできちゃいねぇよ……それより、暫くはどこから鉄砲玉が飛んでくるかわからん生活になる。今なら孔明に連絡つけて、引き返せるが……」
久紀にとっては大学の後輩でもある鸞の兄・孔明に知らせて迎えにきてもらうか、そう問うたのだが、鸞は疲れた顔で笑って首を振った。
「だから、兄の名はコウメイじゃなくて『ひろあき』ですってば……まぁ、初めて、マル暴の難しさみたいなものを思い知ったのは確かです。相関図に一歩足を踏み入れたら、どこで人生を絡め取られるかわからない……課長はそう言って僕を何度も本店に戻そうとしましたもんね。でも、平気ですよ、僕」
「おまえ……」
「課長となら、心中しても構いません」
「おいおい、こっちはそうはいかんぞ」
「それもそっか……でも、四谷に転属して、あの街の勢いも深い闇も知って、何も知らない未成年たちがボロボロになっていく姿を見て……正義感なんて偉そうなものを持ち合わせているつもりはなかったんですけど、でも……課長と一緒なら、僕は階級なんて何だって構わない。これからもずっと、あの街の相関図の一部になって、クソみたいなワルをブッ潰すだけです」
女の化粧をして、男の顔で笑う鸞の頭を、久紀はぐしゃぐしゃっと撫でた。
「お言葉遣いが悪くてよ、姫」
お転婆姫の面目躍如だ。こいつはまだまだ折れはしまいと、久紀もフッと笑った。
「でも参ったな、シャワー浴びると折角のオッパイ取れちゃうし。兄上に触らせてあげたかったなぁ」
「バァカ。そんなもん、ティッシュでも詰めとけよ」
「適当なこと言ってぇ……お化粧だって取れちゃうし」
「スッピンの方が綺麗だよ、おまえさんは」
「もぉ、そういうとこぉ、男前の自覚ありますぅ? 」
楽しそうに笑いながら、鸞はシャワー室に入り、ひょこっと顔だけを久紀に向けた。
「覗いちゃダメですよ」
「覗くか、アホ! 」
ウフ、とウインクをして、鸞はシャワーを使い始めた。
笑わせやがって、久紀はそう呟いて相好を崩した。
上等だ、ウチには不屈のお色気姫がいる。とことん戦ってやる。
「丸川達夫……ナメンなよ」
翌日、歌舞伎町の外れにある雑居ビルで、五人の遺体が発見された。そこは金輪会の事務所で、殺されていたのは会長の金井介二以下、幹部構成員4名である。管轄の新宿東署は、瀬古が死んだことで資金繰りが悪化し、上納金が収められずに本家の制裁を受けたと、そう筋立てをし、東署の組対と合同で成田組の強制捜査に乗り出す方針を打ち出した。
「そんなわけあるか、見当違いもいいところだな」
逸彦は捜査本部の見解をタブレットで確認すると、そのまま電源を切った。
新宿都庁近くの20階建てのMGビル。みどり銀行の本社である。いかにもお堅いオフィスビルといった無機質なロビーの前で立ち止まると、殺気立って駆け込んでくる出勤組の何人かに肩を当てられた。失礼、そんな声も聞こえない。何て社風だと憤慨しつつ、受付カウンターを目指した。
朝8時。逸彦にしては直球すぎるが、黒幕が黒幕だけに、迂遠な方法では久紀達が危ない。
「融資課の丸川達哉さん、呼んで頂けます? 」
フェミニンな髪型で念入りに化粧を施した受付嬢に、渾身の笑顔を向ける。
「お客様、失礼ですが……」
上着から手帳を取り出し、逸彦は笑顔に並べるようにして示した。
「警視庁の深海逸彦と申します。ちょっとお聞きしたいことがありまして」
うっとりと頰を紅潮させた受付嬢は、すぐに社内電話の受話器を上げたのであった。
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