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【一】-2 ムカつく
楽しい時間はすぐに去る。
「下校時刻三十分前です。部活動のない生徒は下校しましょう。部活動に参加している生徒は帰り支度を始めましょう……」
その放送が書道室に流れたとき、既に日は傾いていた。
「今日の声、舞子先生だ」
「いつも男の声だから新鮮だね」
「もうちょっと書きたかったな」
試験明けの部活はいつもよりもにぎやかで、引退した三年生以外が顔を揃えていた。久しぶりに筆を握る今日は、リハビリを兼ねて個々が好きなものを書いていいことになっている。
お喋りも聞こえる明るい教室の中その多くが机に向かっていたが、朔也は一人、畳敷きのスペースに紺色の毛氈を敷いて黙々と字を書き続けていた。
最後の一字。
乾いた空気に硯にある墨からじわじわと水分が失われていく。悩んでいる暇はない。同じ濃さで仕上げなければ作品に一体感が出ない。墨をつけると、朔也は一気にゴールへ向かって筆を運んだ。
リズムに合わせ、点から点へ、太く細く送筆し、収筆は呼吸を乱さず丁寧に。左から右へ、上から下へ、筆の軌跡に墨が走る。慌てず、スピードは保ったまま、次へ次へ。最後の払いはしっかりと押さえ、右下へとゆっくりと持ち上げるように穂先を抜いた。
朔也は大きく息を吐き出して額を拭った。ピンで留めた前髪の下にも汗が浮いている。俯きっぱなしになっていた姿勢に体が悲鳴をあげており、腰を軽くとんとんと叩きながら最後の一枚をじっくりと眺めた。
正確、正確だ。いつものおれの字。筆の入りは紙のどこか、どちらへ向かって跳ねるのか、並んだ横線のどれが一番細いのか、線のどこが強くてどこが弱いのか、全てがきっちりと紙の上に収まっている。
「うーん、相変わらず堅いね」
その声にはっと我に返って顔をあげると、顧問が眉を寄せて立っていた。
「折原君、もっと気持ちを込めてダイナミックに筆を動かしたほうがいい。字に躍動感がほしいな」
「自分もそう思います」
朔也は幾分か歯を見せて笑ってみせたが、顧問は眉間を弛めなかった。
「折原君は背高くて目立つんだから、パフォーマンス向きなのに、すごくもったいないよ」
顧問は繰り返した。
「せっかく目立つ容姿なのに、縮こまった字を書いてたら、すごくもったいない」
「……はい。ありがとうございました」
朔也はくちびるを引き結んで一礼し、筆を洗うために立ち上がった。
朔也の所属する書道部は、通常の書道と書道パフォーマンスの二つの活動を行っている。
書道パフォーマンスとは、主に床に敷かれたメートル単位の紙に音楽に合わせて複数人が筆で文字を書いて作品を仕上げるというものだ。甲子園と名のつく全国大会もあり、テレビや映画を通じて広く知れ渡った。袴などの揃いの衣装を着てダンスを取り入れたり、洋楽を流しながらカラフルな文字や絵を加えたりと、多くの人が抱く物静かな書道の印象とは大きく異なる。
前屈みで動きながら思い通りの字を書くには特に体幹が必要だ。大会では六分間の演技をやりきる体力も求められる。筆の大きさはさまざまだが、大きく太くなるほど重くなり、墨を吸えば更に重くなる。全身で操るサイズの筆になれば、墨と合わせて十キロを超えることだってあるのだ。そのため、書道部であっても体を鍛えることは欠かせない。朔也は自宅でも腕立て伏せなどの筋トレを日課にしている。
朔也は筆に早く慣れたほうがいいという母の信念の元、幼稚園の頃から書道教室に通い始めた。ひらがなやカタカナは半紙の上で学び、小学校にあがると「字が上手い」と毎年担任に評された。地域のコンテストに出品したりコンクールで入選したりと、褒められることが多かったのもこの頃だ。
そして中学生のある日、テレビで書道パフォーマンスなるものを知った。落ち着いた元来の印象とは異なる新しい面に感動し、高校は書道パフォーマンスができる私学に進学した。同じ中学から来たのは朔也をいれてたった二人。バスと電車を乗り継いで一時間ちょっとかかるが、楽しい学校生活を送っている。
この学校の書道部がパフォーマンスを披露するのは、入学式に新入生歓迎会、大会であるパフォーマンス甲子園、文化祭、そして卒業式だ。十二月考査が終わった今、卒業式に向けて準備が始まっている。人数の決まった大会とは違い、一、二年生全員で行う卒業式でのパフォーマンスは大々的で華やかだ。式を終えて体育館から出てくる卒業生の前で、校庭全面を使って門出を祝う。
その様子は皆で映像を見ているので朔也も楽しみにしている。生き生きとした字を書きたい、字を書くことで人の心を動かせるようになりたい、その思いが強くなった。
だが、朔也はこれまで一度も納得のいくパフォーマンスの字を書けたことがない。朔也の字の評価はたいていが「きれい」か「整然としている」で、型にはまった字しか書けないからだ。一年生なのだから焦るなと言われたことはある。だが、そのことがいつも喉に引っかかった小骨のようにちくりと心を刺していた。
「朔ちゃんおはよ!」
翌朝、部活に向かうバス内で聞き覚えのある声がした。車内広告の「たんぽぽ薬局」というポップな字から目を逸らしてそちらを見やる。同じ中学から進学したもう一人の女子が、温かそうなオレンジ色のマフラーを巻き、いつものポニーテール姿で手をひらひらさせてバスに乗ってきた。
一つ前の座席に座ると、笑顔で「試験はどうだった?」とこちらを見てきた。プシューと閉まる扉の音に被せて「まあまあかな」と答えると、彼女がいたずらっ子のような目になる。
「朔ちゃんのまあまあはできたって意味だからな、その台詞は信用できない」
朔也は内心苦笑した。これまでの試験ではクラス一位、学年順位五位以内をキープしている。が、クラス順位も学年順位も張り出されるわけではない。誰に点数や順位を聞かれてもいつも適当に濁しているが、彼女とは中学時代で学年トップを競っていた仲だ。互いに見当がついている。
「今井はどうだった?」
「あたし? あたしもまあまあかなー」
嫌味でない程度に照れ笑いする様子に朔也もつられて笑った。
「今井のまあまあって、ホントにまあまあのときだよね」
「朔ちゃん鋭い! 今回は地理が意味不明でした! 地図の読めないあたしに外国の気候は無理だよ」
「でも、学年順位は一桁だろ」
「それが、前回十五位に落ちちゃって」
朔也たちの高校は一学年七クラスある。偏差値もそこそこあるこの高校での十五位をどう捉えるかは自由だが、彼女本来のできを考えれば不本意なのだろう。
「前回は国語がね。序詞とか縁語とか訳し方は難しいし、勅撰和歌集を挙げよの問いに万葉集って書いたらバツになったし」
「あれは暗記モノ。それに、万葉集は有名だけど勅撰じゃないし」
「チョクセンってどういう意味だっけ?」
「教科書に載ってるよ」
「朔ちゃんって意地悪だなー」
気負うことなくぽんぽんと会話が成り立つ彼女とはなんだかんだで縁がある。同じクラスで出席番号は今井と折原で前後だし、同じく書道パフォーマンスに憧れて進学したので部活も同じだ。小学校は学区が違ったが書道教室は同じなので、幼稚園の頃から隣で筆を握ってきた幼馴染みと言っていい存在である。
そこでふと黒髪マスクの彼を思い出した朔也は「なあ」と改めて声をかけた。
「なんで毎回山宮と点数競争するの? いつまでやるつもり?」
するとクラス委員長でもある彼女が大袈裟に肩をすくめた。
「山宮君、勉強に真剣に向き合ってなかったからもどかしくって。それで勝負しようって言ったのが始まり。なんの科目かは交代で決めてる。今回はあたしが数学って決めた」
いかにも姉御肌の今井が考えそうなことだ。半分納得しつつも、クラスで自分と一、二を競っているはずの彼女と赤点スレスレの山宮では勝負にならないのではとも思う。
「山宮、勉強ができそうな雰囲気はあるんだけどな」
実際、山宮基一というクラスメイトの第一印象は「真面目キャラ」だ。休み時間でも本を読んでいるところを見かけるし、授業中に注意されているところは見たことがない。いつも淡々とした態度で、普段からつけているマスクのせいか、あまり笑わないし喋らない。だが、陰キャに徹しているわけではないらしく、誰かに話しかけられれば答える。今井や副委員長などのクラスの中心メンバーと話している印象が強い。
と、今井の声が続く。
「山宮君って、ちょっと朔ちゃんと似てるでしょ? だから応援したくてあたしが意地になって競争してるところもあるかな」
「山宮とおれが似てる? どこが?」
すると彼女はふふっと含み笑いをした。
「だって、山宮君って」
と、そのときピンポンと音が響いた。次は終点という車内アナウンスが流れ、人々が降りる準備を始める。彼女がさっと立ち上がり、朔也の肩をぽんと叩く。
「朔ちゃん、急げば十二分の電車に乗れそうだよ」
明るい声に朔也もバッグを肩にかけて席を立つ。ブレーキで揺れる床に足を踏ん張った。
終業式までの自宅学習期間、運動系の部活はほぼ毎日活動している。午前の部活を終えて食堂へ行くと、「朔ー!」と遠くから声がかかった。ジャージ姿の見知った顔の男子たちが集まっている。朔也は食膳をもらうとすぐにそちらへ行った。
「おはよ。今日のA定食、チキン南蛮とか最高」
その台詞に食べ始めていた皆が笑った。
「朔、大盛りって、これ以上背を伸ばしてどうすんだよ」
「書道部なら筋肉は必要ねえだろ」
「そうそう、大盛りは運動部用だぞ」
男子の囲うテーブルには、生姜焼き定食や鶏マヨ丼、唐揚げの詰まった弁当箱などと一緒に、字のごとく山盛りのご飯茶碗が並んでいた。
「うちの書道部は半分運動部だよ。体操部のそっちこそバク転とかするのに筋肉必要なんじゃないの。肉食べな」
朔也がごくりとお茶を飲みつつ言うとまた笑いが起こる。
「それ、体操部あるあるだから。体操部だとバク転できるって思われる」
「そんな簡単にできねえっての」
「俺もまだ不完全だし」
「ごめん。おれ、できる」
スポーツも得意な朔也が言うと、このヤロ、と頭をわしゃわしゃっと掻き混ぜられた。部活中はピンで留めている前髪がふわふわする。
「朔って地味にいろいろできるんだよなあ」「その才能ちょっと分けろ」「あと身長な」
三年生が引退した今、朔也は書道部唯一の男子部員だ。部活中は常に女子が周りにいるので、こうして休み時間に男子と軽口をたたけるのは気分転換になる。と、一人が「あれ」と朔也の後方を見た。
「山宮じゃん。あいつも部活か」
そちらを振り返ると、ちょうど彼が食券を窓口に渡すところだった。昼食だからか、マスクを外している。それが不意に昨日告白してきたときの彼を思い出させた。
「あいつがマスクしてないの久々に見た」「山宮って何部?」「知らねえな。あんま喋ったことないし」「朔、知ってるか?」
つけ合わせのキャベツを頬張った朔也も首を傾げた。
「おれも知らない。今日やってる部活ってなんだろ」
そう答えながらも、内心彼が学校にいるのは補習のためではないかと思った。教科によって異なるが、赤点でなくとも一定以下の点数をとると補習が行われることがある。が、朔也はその対象になったことがないので、詳しいところは知らない。
「山宮……部活じゃなくて、図書委員とか?」
本好きのイメージを抱いているのは皆同じらしい。一人がそう言ったが、別の一人が「うちの図書委員は女子だろ」と首を横に振る。
「保健委員とか?」
「それはマスクからのただの連想」
「あいつにはマスクをつけておけ。女子をとられる」
とられなくてもお前のところには来ねえよ。一人の言葉にわっと笑いが起きる。すぐに話題は山宮から逸れ、朔也は椅子に座り直して肉にかぶりついた。じゅわっと出る肉汁と甘酢ダレの酸っぱさが混ざった絶妙な味が口いっぱいに広がる。
「できる子の朔ちゃん、君はそのへんどうなのよ?」
「書道部って女子多いだろ」
「かわいい先輩からアタックされたりしねえの?」
朔也は濁して笑った。後ろにいる男子に複数回告白されているとは口が裂けても言えない。
「そんな空気サッパリないよ。皆、おれのこと女子と思ってるのかも」
こちらの笑みにつられたように皆もあははと声をあげる。
「百八十センチ超えの女子はなかなかいねえよ」
「朔も寂しいクリスマスを迎えるのか」
「も、ってなんだ。俺はちゃんと約束がある」
友人らの話に耳を傾けながら、朔也はやわらかな日の差す空間に目を細めた。冬の暖かい昼は眠気を誘うように心地よい。
担任や委員長副委員長の性格もあるのだろう、クラスメイトたちは性別に関係なく全体的に仲がいい。また、進学校ではあるものの、付属大があるので勉強が全てという校風でもない。特に試験が終わり冬休みを待つ校舎には、いつになくのんびりとした空気が漂っている。中学時代、ここから抜け出したいとあがいていた頃とは違う、平和で穏やかな空間だ。
「おっと、そろそろ時間だ」
「朔、お先に」
「じゃあなー」
どやどやと友人らが去ると、急に食堂ががらんとした。普段話し声で溢れかえっている空間に突然静けさが下りて、空いた食堂がより広く感じられる。書道部の女子たちの多くは弁当を持参して部室で食べており、食堂へ来たのは朔也一人だ。久しぶりの部活に腕がうずうずして、鶏肉の塊をごくんと飲み込んだ。
まだ早いけど、戻って練習しよう。
スマホで時間を確認すると、朔也は定食を掻き込んで席を立った。が、椅子の脚が床のタイルに引っかかって思いがけずガタガタと音を立てる。すると離れたテーブルにいた山宮が顔をあげてばちりと目が合った。既に完食していたようだ。空いた丼一つと水の入ったコップを横に置き、なにやら冊子を広げてペンを持っている。
流れで「よ」と笑いかけると、山宮は目で頷くようにし、冊子を閉じた。まだマスクはつけていなかった。
「勉強?」
トレーを持ったまま近づいて声をかけると、彼は首を横に振った。
「別に。部活関係のものを見てただけ」
だが、その冊子はコピーをホチキスで止めた手作りのもので、表紙は真っ白だ。それがなんなのか見当もつかない。
「それ、なに?」
妙に気になり、「山宮って何部だっけ」と向かいに腰を下ろした。
多分、写真部とか、将棋部とか、そういう系だろう。文芸部だったらいかにもって感じだけど――そんなふうに思ったところへ「放送部」という予想の斜め上を行く答えが返ってきた。
「放送部?」
想像もしていなかった、というより、そういう部活があったとは知らなかった朔也は驚いた。
放送部……? 新歓の部活紹介で聞いた覚えがない。文化祭でなにかを展示したりデモンストレーションを行ったりしていた記憶もない。いや、おれが自分の部活動に夢中だったから覚えていないのか――。
思い返すと、中学校に放送委員はいたような気がする。が、彼らがなにをしていたのかまでは覚えていない。
「それって放送委員とは違うの?」
するとその質問は聞き飽きたと言わんばかりに、山宮がため息を漏らして頬杖をついた。
「うちの学校に放送委員会はねえわ」
「そう、だっけ? 放送部ってなにするの?」
「いろいろ雑多。筋トレするところは運動部と同じじゃね」
彼はあっさりそう言ったが、放送部がてっきり文化部だと思った朔也は想定外の答えに再び驚いた。
「え? 筋トレするの? なんで?」
「なんでって……書道部と変わかんなくね。体作りのためだろ」
「あれ、おれが書道部だって知ってるんだ?」
「自己紹介で全国制覇するとか大見得切ったやつのことくらい覚えるわ」
「そ、そうか。えっと、それで、放送部って文化部じゃないんだ? なんで筋トレ?」
すると山宮がきゅっと口を引き結び、考えるような目つきでじろじろとこちらを見た。
あれ、なんか失敗したか?
朔也の背中にたらりと汗が流れた。
目が合ったから話しかけただけなんだけど。なんでそんなに見てくるんだ?
普段の学校生活では接点もない上に、マスクを外した彼と向き合うのは罰ゲームのときくらいで、その顔をはっきりと見つめるのは初めてだった。
いつもは隠れている色白の肌やスッと通った鼻梁が際立って、睫毛にかかる前髪の隙間から右目に泣きぼくろが覗いている。ストレートの黒髪も手入れがいいのか艶があり、つむじを頂点にしたツーブロックの髪型も似合っている。
山宮って、よくよく見るとやっぱりかっこいいんだな。マスクなんてしなきゃいいのに。でも、体が弱いとか事情があるのかもしれないし、うかつなことは言えないか。というか、かっこいいというより、視線から妙な空気が漂ってくるような――。
そのとき、頬杖をついたまま彼が口を開いた。
「折原って、そういうとこ自覚ねえんだな」
「え、なにが?」
「お前、他人に興味ねえだろ」
思いがけず強い言葉が朔也の腹をえぐった。が、彼は瞬きもせず鋭い眼差しでこちらを見てくる。
「今の質問に意味はない。ただ会話を続けるための浅い好奇心。同じクラスでも俺のことなんてなんも知らねえ。さっきそこで一緒に食べてたやつらもそう。オトモダチと仲良しこよしのぬるま湯が大好き。いつもへらへら適当にやり過ごしてる。自分も傷つきたくねえし相手も傷つけたくないのでこっそり壁を作ってます――そんなとこ?」
急にどっどっと心臓が音を立て始めた。背中にさあっと冷たいものが走って、こぶしをぎゅっと握る。
――折原君ってさ、ホント残念だよね……。
――できるアピールうぜえんだよあいつ。
――折原、最近元気がないぞ。なにかあったなら先生に話してくれ。
蘇る記憶に無理矢理蓋をして口の端を引っ張り上げた。
「それは、言い方きつくない? へらへらとか、ひどいな。笑顔を心がけてるだけだけど」
「……まあ、お前はそう言うわな。でも折原って、胡散臭い笑顔のときがあるぞ」
彼がテーブルに手をつき、向かいにいる朔也のほうへ身を乗り出す。
「俺なら、お前のこと分かってるのに」
思わず体がびくっとする。そんな朔也の耳元に更に顔が近づいた。
「……告白する相手のことくらい、俺はちゃんと見てるんだぜ?」
いつもとは違う低く囁くような声に体をぞくりとなにかが走り抜ける。が、次の瞬間、頭をぽすっとはたかれた。反射的に顔をあげれば、丸めた冊子片手に山宮がふふんとこちらを見下ろしている。
「なんてな。クリスマスに予定のない折原君、ちょっとはどきどきしたか? 放送部のことを知りたきゃ委員長に聞きな。あいつなら知ってっから」
動けない朔也の前から彼は食器を持って立ち去った。
マ・ジ・で・ム・カ・つ・く!
朔也が勢いよくざざざっと筆を走らせて息をつくと、周りが異様な空気を察知したようにこちらを見た。半紙ぎりぎりいっぱいに「穏やかな空」と心とは真逆のことを書いて、むかむかする気持ちを紙の中に閉じ込めようとする。
「朔、昼休みになにかあったの?」
「字に勢いしかないよ」
「穏やかじゃないって字が言ってる」
顧問のいない書道室で一年女子たちが口々に尋ねる。筆を置いてため息交じりに「山宮がさ」と言うと、彼女たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
「誰?」
「朔ちゃんとあたしのクラスの男子」
「いつもマスクしてる子じゃない?」
「ごめん、分かんない」
「マスクの子か。今井ちゃんと一緒にいるところを見たことがある」
女子が山宮について話しているのを聞いていると苛立ちがぶり返した。
なにもかも見透かしたような台詞も、妙なトーンの声も、してやったりというあの笑みも、なにもかも腹が立つ。こっちの苦労も知らないで分かったようなこと言いやがって。たまたま見かけて声をかけたとか最初の罰ゲームのときに言ってたくせに、なにを今更「告白する相手」だ、赤点スレスレチビマスクハスキー!
いつになく心の中で罵倒する。頭をがりがりと掻くとまたも皆が顔を見合わせた。
「で、山宮君がどうしたの」「朔ちゃん、なにがあったわけ」「朔が荒れるなんて珍しいね?」
「食堂でたまたま会ったんだけどさ。ちょっと話しかけたら……って、本気で腹立つなあいつ。次会ったらマスクに墨でバカって書いてやる」
最後のほう、少しおどけた口調で言うと、それぞれがほっとしたように笑みを見せた。
「朔ちゃんと山宮君が喧嘩したのかと思った! びっくりさせないで」
「朔っていつも穏やかだもんね。誰かと喧嘩するところなんて想像つかない」
「山宮君のことはよく知らないけど、怖そうに見える」
「話しかけにくい感じの子なの?」
すると今井がおかしそうにあははと笑った。
「山宮君、そんな子じゃないよ! 自分から話しかけるタイプじゃないだけ。根はまっすぐないい子だよ」
「今井、それは言い過ぎ。あいつ、絶対腹黒いよ。人のことズケズケ言ってくれちゃってさ。『クリスマスに予定のない折原君』とか嫌味言うし」
途端に女子一同が噴き出す。
「クリスマスなら女子といるよって言ったら」「たくさんの女子に囲まれて楽しく部活しますって」「当の山宮君はデートってこと?」
いや、あいつ絶対に彼女いないって。だっておれに何度も偽告白してくるし――喉までそれが出かかった朔也の頭に再びあの声が響いた。
――告白する相手のことくらい、俺はちゃんと見てるんだぜ。
「……皆騙されるな。山宮、イケメンだけど、性格悪いから」
朔也の言葉に再び皆が笑った。
「イケメンって言った!」
「朔ちゃん、それ、褒めちゃってる」
「男子が認めるイケメンね。興味出てきた」
「今日山宮君を見かけたら、私、笑っちゃう」
くだらない会話をしているうちにむかっ腹も治まってきた。気を取り直し、硯に水を足した。墨をすっている時間が一番気持ちが落ち着く。はらりと髪が落ちてきたので、びしっとピンで留め直してから手を動かした。
――お前、他人に興味ねえだろ。
――俺はちゃんと見てるんだぜ。
自分は自ら人に関わろうとしないくせに、分かったような口ききやがって。おれがどれだけ人間関係に気を遣ってるか知らないだろ。あんな言い方しなくたっていいのに、本当にムカつく。
朔也は不愉快な気持ちを振り払うように墨をすり続けた。
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