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【二】-2 最高だ!
段ボールを抱えたまま室内をきょろきょろと見回していると、上履きを脱いで部屋にあがった山宮に「折原」と呼ばれた。
「その箱、右の棚に置いて」
言われて朔也は入り口すぐ側の棚を見た。だが、天井まで続く棚には使い古された段ボールがひしめき合っている。空いているスペースもあったが、どこに置けばいいのかさっぱり分からない。
「えっと、何段目?」
「下から二段目。緑の線が入ってる段ボールは一番下。紙袋は上の空いてるとこに並べて。紺色の紙袋は入り口の横に適当に置いて」
山宮はてきぱきと朔也に指示をすると、大きな台の前に立った。
突然、山宮の腕がふわりと浮いた。学ランの袖から覗く細い手がピアニストのように台へと伸びる。きれいに爪が切られた指先がメモリのついた黒い盤のスイッチを弾いた。
パチンパチン。
マスクをしていても分かる。山宮の横顔が生き生きとして、黒い瞳に輝きがともる。楽器を弾くような慣れた手つきで白い指が機械の上を滑り、無機質なボタンたちが軽快なリズムで音を奏でた。うっかり自分が触れば不協和音を起こしてしまいそうな調べだ。
興味をそそられた朔也はすぐに荷物を運んで棚に納めた。が、最後の紙袋を運び入れたとき、既に彼は機械から離れ、壁に凭れて床に直に座っていた。学ランは横にたたまれ、紺色のセーターを着たリラックスした様子で片膝を立てている。
「外の荷物はこれでおしまいだけど、次は?」
そう言って紙袋を入り口の脇に置くと、山宮がこちらを見て頷いた。
「片づけ終了。サンキュ。助かったわ」
どうやら自分は用なしになったらしい。が、その物珍しい部屋に朔也は「そこってなに?」と窓と反対側の壁にある小さなカーテンを指した。ところが、山宮はそれに答えず眉間にしわを寄せる。
「扉」
「え?」
「扉閉めろよ。埃とか入ってくるだろ。機械は繊細なんだよ」
「え? あ、ごめん!」
慌ててしゃがみ込んでストッパーを外すと、重い扉がこちらに閉まりかけてガンッと思い切り頭に当たった。
「いってッ」
あまりの衝撃に思わず頭を両手で押さえる。が、朔也の抗議の声も虚しく扉は他人事のように大きな音を立ててしまった。半分涙目で山宮のほうへ向き直ると、彼は少し呆れたようにこちらを見ていた。
「折原ってがさつだな……静かに閉めろよ」
「あんなに重いなんて思わなくて」
「放送室なんだから、防音扉なのは当然だろ」
山宮は平然とそう言った。
だから金属の分厚い扉だったのか。
上履きを脱いで、上がり框へと膝をつく。床は音を吸収するためだろうか、水色のカーペットになっていた。学校らしさとは違う部屋の空気になんだか身が縮こまる。再び部屋を見回した朔也の目が、扉横に置いた紙袋から覗いているそれを捉えた。
「あ、これ」
それは食堂で山宮と会ったときに、彼が読んでいた冊子だった。手にとると、やはりプリントをホチキスで留めただけの手作り冊子だということが分かる。
「ああそれな。それは、今日使った台本で」
そう説明する山宮の声が突然遠ざかった。
――一年D組 山宮基一
裏表紙に書かれた縦書きの名前が朔也の目に飛び込んでくる。思わず息を呑んでその文字を食い入るように見つめていると、突然冊子を奪われた。「あ」という言葉と目がそれを追う。山宮が露骨に嫌そうな顔をした。
「お前、今、字が下手だなとか思ったろ。これだから書道部は」
「……山宮」
言葉を遮りずいっと朔也が手をついて身を乗り出すと、彼が少し驚いたように後ろへ身を引いた。が、朔也は構わず叫んだ。
「山宮の名前、最高だ!」
「……は?」
「基一って完璧な線対称じゃん! すっごくきれいな名前! 羨ましい!」
ほら、と冊子を奪い返して手書きの字を指し、山宮の眼前に突きつける。
「な⁉ 『基一』って縦書きだと線対称だろ! おれの名前と全然違う! ああ、おれもこういう名前がよかった! って、親にそんなこと言えないけど。もう、基一って最高! 名前を書くだけですっごく横線の練習になる!」
「……お前、バカにしてんのか」
山宮がなにか言ったのは聞こえたが、朔也の意識はすぐに名字のほうに向いた。
「あっ、山宮って名字もほぼ線対称だ! すごい! すごすぎる‼ あのさ、山宮の名前って篆書に向いてると思うんだ。きれいに左右対称になるし、見た目もおしゃれだし。印鑑を作るなら断然篆書がお勧め! いや、『一』に特徴を出すには隷書がいいのかな……? そうだ、山宮の家って表札どんなの⁉ うちは母親が選んだんだけど、行書なんだ。つなげ字ってかっこよく見えるのかな? 折原って名字自体カクカクした雰囲気だし、楷書よりもいいかなとも思うけど。って、おれの家じゃない、山宮の家だ! なあ、表札どんなの⁉ どんな書体⁉」
王道で楷書か。でも隷書がいい。絶対隷書が似合う。
朔也はわくわくして答えを待ったが、何故か緊張した様子で山宮がごくりと喉を鳴らした。
「……ローマ字でYAMAMIYA」
「ローマ字⁉」
朔也は悲鳴をあげた。
「なんで⁉ なんで漢字じゃないんだよ⁉」
だんっと床に手を打ちつけてがくりと肩を落とすと、「んなこと言われても」とぼやく声がした。
「どうして……どうしてローマ字に……せっかくの美しい名字が……」
「なんで折原が悔しがる」
「山宮……全国にどれだけ美しい線対称の名字があると思う……篆書も隷書も似合うのに、案外いないんだ……」
「そんな価値観で人の名字見たことねえわ」
「おれのイチ押しは高木さん……特に梯子の髙だったんだけど、山宮もすごくいいって気づいたのに……こんなにいいのに……表札がローマ字だなんて……」
「……今初めて気づいたけど、YAMAMIYAはローマ字でも線対称だし、それでよくね」
「うそ‼」
朔也ががばっと顔をあげると、その勢いに彼がびくっとしたように体を揺らした。
「ローマ字でも線対称⁉ うわ、すごい、すごいよ山宮! すごい! いや、すごいけど……でも、できれば、表札は、漢字であってほしかった……」
防音の部屋に沈黙が下りる。数秒後にはあとため息をついて朔也は顔をあげた。
「山宮、将来家を買ったら表札は漢字にしなよ……」
なんのアドバイスだよ、とぼそりと呟く声がする。朔也は改めて手元の冊子の字を見つめた。山宮の手書きの文字は一画一画がきちっきちっと書かれていて、ゴシック体のように見やすい字だった。
「……あのさ」
山宮が話しかけてきたので冊子から彼を見た。
「なんていうか、お前、マジで書道が好きなんだな。ただちょっと好きとかのレベルじゃねえんだな」
一瞬、言葉に詰まる。が、どうにかにへらっと笑って頭を掻いてみせた。
「あー……発見したと思って……。人の名前で騒ぐとか、ごめん! 気分よくないよね」
やってしまった。
朔也の手に汗がにじみ、背筋が薄ら寒くなる。
――折原君って、ホント残念だよね……茶髪が地毛ってホントかな。そんなに書道が好きなら筆で染めちゃえばいいのにね。
――できるアピールうぜえんだよあいつ。図書の時間に辞書見て好きな漢字を探してるとか、ただの変人だろ。
――折原、最近元気がないぞ。なにかあったなら先生に話してくれ。どうしてコンクールに入選したことを皆に言いたくないんだ?
が、山宮は「いや」と首を振った。
「お前も割と普通なんだなって思った。ただの書道バカ。そういうことだろ」
だがその声は朔也の耳を通り過ぎてしまう。自分を見る目線、ひそひそと囁き合う仕草、さまざまな光景が脳裏に蘇る。無音の部屋の中、自分の心臓の立てる音が耳元で鳴って息苦しさが募った。
「……ま、まあ、確かに書道は好きかなあ。小さい頃からやってるから、生活に組み込まれちゃってるっていうかさ! 今思ったけど、ローマ字の表札もおしゃれでいいなって! 読み方がいろいろある名字もあるし、需要あるよね!」
喋りながら必死で次の言葉を探す。鼓動が早まり、息が浅くなる。はあはあと口を開いて息継ぎをしているのに、胸が鷲掴みされたように苦しい。膝の上で握るこぶしが汗で冷えていく。
早く、早く軌道修正しないと。山宮の名前がきれいだったから、つい言ってしまった。目立つようなことを言っちゃ駄目なんだ。おれは「普通」の高校生でいたいんだ。だから、早く、早く、早く。
そこではあという大きなため息が聞こえて、朔也はそっとそちらを見た。
「折原、お前、それ本気で言ってんの?」
思わずぴんと背筋が伸びる。山宮がまた一つため息を重ねて、つけていたマスクをとった。薄いくちびるや目元の泣きぼくろがはっきりとし、端整な顔立ちが顕わになる。喉が渇いたのか、水のペットボトルを鞄から出してごくごくっと飲んだ。学ランのときには隠れていた白い首の喉仏が動く。
次は一体なにを言われるのか。「ええと」と言い訳しようとすると、ペットボトルを持った手がカーペットの床をとんとんと叩いた。
「てか、お前、さっきからなんで正座? 堅苦しいわ。普通に座れよ」
独特の部屋に圧倒されて正座していただけだったのだが、慌てて足を崩した。緊張している朔也に「あのさ」と山宮が切り出す。
「折原ってそういうとこが駄目なんだわ。『おれは書道が好きで漢字が大好きです』って堂々と言えばよくね。人の顔色窺って無難に過ごそうとしてんじゃねえよ。誰にでもいい顔してて疲れねえの?」
その声は特に怒っているふうではなかった。こちらを見る視線も食堂のときとは違い、呆れているという雰囲気だ。
「自分の好きなことまで隠して、バカじゃね。そのチャラい髪くらいチャラくなれよ。人の目を気にしすぎっから全体的に堅いんだわ」
そういうの、字にも出るんじゃねえの。アーモンド形の目がまっすぐこちらを見つめてそう言ったので、朔也は大きな衝撃を受けた。
「……気持ち悪いと思わなかった?」
「あ? なにが」
「おれ、山宮の名前に対してすごく変なことを言ったんだけど……篆書とか隷書とか意味分かんないだろうし」
すると彼は「ああ」と簡単に頷いた。髪がさらりと揺れて目に入ったのか、鬱陶しそうに前髪を手で払う。
「正直半分以上理解できなかった。けど、お前が書道とか字が好きってことは分かったぜ。それでいいんじゃね。繕おうとする意味が分かんねえわ」
「いや、だって……山宮からすれば、おれ、すごい変人だろ。そういうやつとは喋りたくないだろ」
「それ、お前だけじゃね」
山宮はあっさりとそう言った。
「自分の喋りたいこと喋りゃよくね。それに、お前の書道バカぶりを見んの初めてじゃねえし、そんな驚かねえわ」
「えっ? いつの話?」
「夏前くらいだったか? 前回のパフォーマンス甲子園でスタメンになれなかっただろ。それでトイレでガン泣きして、それなのに必死に隠そうとしてただろ」
不意にそのときのことが思い出され、朔也は自分の顔がかーっと赤くなっていくのが分かった。
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