キスはドラゴンより強し!?

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 森の中にどっしりと構える屋敷の門を栗毛の少女が叩く。少女の名はマリー=アンジュ・セラフィーヌ。近くの屋敷に住んでいる貴族の娘だ。そんなマリー=アンジュがこの屋敷を訪れたのは彼女の護衛でもあるガブリエル・トマ・ラファラン伯爵が無断で三日も続けて姿を見せないからだった。  シュヴァリエ(騎士)の称号も持つガブリエルはマリーの父クロード子爵より身分が高く、本来であれば護衛をするような身分ではない。マリーの護衛をしているのはガブリエル自身も言うように遊びでしかないのだろう。  実際マリーに護衛が必要だと誰も考えておらず、ガブリエルが無断で何日休もうが構わない。それに何より、そういったことは珍しくなかった。適当で責任感が薄いといえばそれまでかもしれないが、ガブリエルがこうして姿を見せなくなるのには訳があるとマリーは知っている。だからこうして一人で訪ねてきたのだ。  間もなく召使が門を開けた。マリーの顔を見ると用件を告げるまでもなく、ガブリエルはいつもの気鬱で部屋に閉じこもっていると告げられた。マリーはガブリエルが三日姿を現さないと必ず来るようにしているからもはや勝手知ったるなんとやらだ。いつも通り、さっさと部屋まで行ってドアを二つノックする。  こういう時は返事があるまで時間がかかるから、マリーはドアにもたれて待つ。これまで返事がなかったことはない。なにかをずるずると引きずるような音が聞こえた。起きてはいるようだ。 「マリー=アンジュよ」 「僕の天使……」  くぐもってかすれた声が聞こえた。予想通りその声にいつもの軽い調子も張りもない。ガブリエルは十年ほど前まで親友と旅をしていたのだという。その親友を『事故』で亡くして以来、ガブリエルは心を病み、人前に出られなくなる日があるのだと聞かされた。 『事故』とガブリエルは言うが実際にはドラゴンに食われたとか、火山に転落した親友をガブリエルが見殺しにしたとか、あまりよくないうわさも多い。だからなおさらガブリエルの心の病は癒えないのだろう。 「私の素敵なシュヴァリエ・ラファランがいないと喧嘩ができなくて暇なの」  マリーはいつものように声をかける。心配などと言っても無価値なことはわかっている。 「ごめんね、マリー。明日にはきっと行くから今日は書庫の探検でもして帰ってくれない?」 「もちろんそのつもり。ガブリエル、私はどんなあなたも好きよ」 「ありがと、マリー」  声が少し力を取り戻したのを聞いてマリーはドアの前を去る。ガブリエルはこれだけのことで再び出てきてくれるようになるのだから、単純だと思う。年齢は絶対に教えてくれないから知らないが、おそらくそこそこの年なのにマリーのような十六の小娘に慰められるのは複雑ではないのだろうか。  書庫に向かおうと階段に足をかけるとガブリエルの小間使いが不安そうにこちらを見ているのが目に入った。新米の彼女は突然閉め出されてしまい、不安なのだろう。自分が気に障ることをしてしまったと気にしているのかもしれない。ガブリエルはこもるとき突然豹変したように出て行けと叫ぶのだという。その振る舞いが周囲を振り回していることも自覚があるらしいが余裕がないのだろう。まったく仕方ないと思いながらマリーは彼女に視線を投げる。 「ポーラ、いつものことよ、大丈夫。夕方には出てくるでしょうから、髪のお手入れ頑張ってね」 「はい」  彼女はほっとしたように笑った。マリーは軽く手を振って赤い絨毯が敷かれた階段を下りる。ガブリエルの書庫は一階と二階にまたがっているが、入り口は一階に一つしかない。  ガブリエルは自慢の黒髪の手入れにとにかく時間がかかる。特別長いからというだけでなく、こだわりがあるらしい。マリーよりよほどきれいで艶やかな長い髪を揺らして歩く姿はシュヴァリエの名にふさわしい凛々しさだが、その手入れに一時間はかけすぎではないかとマリーは思っている。  いつだったか、そんなに手入ればかりしていたら禿げるといったら一週間口をきいてくれなかった。こだわりと矜持が彼には何より大切らしい。大人げないとは思ったが面倒だからそれ以上何か言うのはやめておいた。  マリーがいつものように書庫のドアを開けると猫のマロンがするりと出てきた。マロンは少しぽっちゃりした毛の長い茶色の猫で尻尾はモップのように太い。 「あら、また入り込んでたの?」  マロンは少し不満そうにだみ声で鳴いて、マリーの足にまとわりつく。 「あなたも閉め出されちゃって暇なのね」  しゃがんで頭を撫で、あごの下をこちょこちょしてやるとマロンは満足そうに鳴いて書庫のソファにどっかりと座った。読書に付き合ってくれるらしい。単に撫でてもらいたいのかもしれない。ガブリエルは普段マロンを文字通り猫可愛がりしているのにこういう時は閉め出してしまうのだから困ったものだ。マロンがぽっちゃりなのもガブリエルがかわいいからとおやつをあげすぎるせいで、ガブリエルが引きこもっていると少し痩せると執事が言っていた。  マリーが適当な本を選んでマロンの隣に座るとマロンは当然のように膝に乗ってきた。小柄なマリーにマロンは少しでなく重い。それでもかわいいと思ってしまうのだから猫というのは不思議だ。 「あなたって本当、ふてぶてしいわね。飼い主に似たの?」  マリーが撫でるとぶなぁあと不細工な声で鳴く。もう少し、猫らしくかわいらしい声で鳴けないのかとも思うが、これはこれでかわいい。しばらく本を読みながら撫でていたが、長い毛の奥の身体が前回来た時よりむっちりしている気がして、マリーは読書よりマロンの運動を優先することにした。  読み掛けの本にしおりを挟んでサイドテーブルに置き、髪に結んだリボンを解く。 「マロン、遊びましょ」  目の前でゆらゆらと揺らしてやれば、マロンはすぐに飛びついた。マロンはぽっちゃりとした見た目とは裏腹に俊敏に動き回る。マリーはできるだけ高く跳ねるようにリボンを振る。マロンは興奮し始めたのか、マリーの挑発に乗らず、尻尾をゆらゆら揺らしながら体勢を低くした。次で勝負を仕掛けてくる気らしいと察してマリーはリボンを握り直す。 「今日は取られないわよ」  マリーはこうして遊んでいてマロンに何本もリボンを取られている。ガブリエルが言うにはマロンはそのリボンを自分の寝床にため込んでいて、取ろうとすると怒るらしい。マロンにとってリボンは戦利品なのだろう。マリーは別にリボンくらい取られても構わないと思っているし、取られた分だけガブリエルがリボンをくれる。だが、毎回リボンを取られるのは癪だった。  マリーは揺らしているだけだったリボンを一気に引き上げる。マロンがしなやかに跳び上がった。ゆうに一メートルはジャンプしたマロンにリボンを取られまいとすぐに横に振ったが、リボンはすでにマロンがくわえていた。 「あっ」  マロンは瞬く間に書架の上に駆け上がり得意げにリボンを振って見せた。 「もう! そろそろネズミを捕った数より私のリボンを取った数のほうが多いんじゃなくて?」  マロンはまた不細工に鳴いてどこかに行ってしまった。リボンを隠しに行ったのかもしれない。  マリーはふと息をついて本を開く。ガブリエルの蔵書は多岐にわたっていて膨大な数があるから飽きることがない。装丁も凝ったものが多く、初めて連れてこられたときは装丁を見ていたら日が暮れていた。外国語の本も混ざっていて読めないものもあるが、ガブリエルは気が向けば翻訳しながら読んでくれるから本好きのマリーには最高の環境だった。  ただ一つ気になるのは本が全く分類されずに並んでいることだ。小説と医学書、天文学の本が隣り合っているのは百歩譲って理解するとしても、小説の上巻と下巻がまったく別の場所に置かれているのは我慢できない。続きが読みたくて仕方ないのに広い書庫を探し回らなければならないからだ。別にガブリエルがだらしないわけでも、整理をさせていないわけでもなく、そう置いておくのが好きなのだという。一度文句を言ったら宝探しみたいで楽しいだろうと返されたが、同意しかねる。  マリーが読書に没頭していると不意に手元が暗くなった。不思議に思って顔を上げるとガブリエルが本を覗き込んでいた。本に夢中でそんなそばに来るまで気付かなかったらしい。 「ああ、あの本か」  ガブリエルが低い声でつぶやいた。何を読んでいるのか確認していたらしい。 「あら、珍しいわね、ガブリエル」  ガブリエルは少し気まずそうに笑って薄く形のいい唇をなぞる。その手には相変わらず黒い革の手袋をはめていた。いつもだったら、そのまま姿を見せないのに珍しいこともあるものだと思う。 「僕の愛らしい姫が来ているのに閉じこもっているのももったいないなと思ってね」  そう言う割に髪は完璧に整えられているし、派手な刺繍のジレを着こんでいるあたり、すぐに部屋を出てきたわけではなさそうだ。マリーの読んでいた本が二冊目であることからもそれは間違いない。 「それにまたリボンを取られたみたいだしね」  ガブリエルは細く長い指で先ほどマロンに取られたリボンとよく似た色のリボンをもてあそんでいた。 「マロンの寝床ってあなたの部屋にあるの?」 「そうだよ。勝手に決めちゃってね。閉め出してもドアに体当たりしてくるから諦めてる」  猫にしては骨太でぽっちゃりしているマロンの体当たりはそこそこの音がしそうだ。ガブリエルが折れるのも当然かもしれない。 「無理矢理開けさせてきてリボンを隠してたからさ」  ガブリエルは慣れた手つきでマリーの髪にリボンを結ぶ。細く長い指は騎士とは思えないほど繊細で器用だ。 「必ず同じ場所に隠すって、あの子、犬みたいね」 「確かにね。にゃーにゃー鳴かないし、本当は猫じゃないのかも」  おどけたように言われてマリーは思わず笑う。 「だったら何だって言うの?」 「猫によく似た犬か、まったく新種の生き物か……」 「もう、ガブリエルったら冗談ばっかり」  ガブリエルは肩をすくめてマリーの頭を撫でる。 「マロンは君のことが好きなんだよ。君のリボンしかため込んでないもの」 「マロンが好きなのは私のリボンよ。リボンを取ったらさっさと行っちゃうんだもの」 「猫の考えはわからない」  ガブリエルは長い黒髪をかきあげ、ふと息をつく。ブルーグレーのきれいな目がどこか申し訳なさそうに揺れる。 「近頃頻繁に休んですまないね」 「別にいいわ。私の護衛が必要だなんて誰も思っていないし、あなたの書庫が好きだから口実にもなるし」 「そっか……君のそういうところ嫌いじゃないよ」 「好きって言ったらどう? ひねくれた物言いは余計心をひねくれさせるわ」  ガブリエルはふと笑ってマリーの隣に腰を下ろす。かすかに百合の花の香りがした。いつも派手に着飾って、香水をつけ、ガブリエルの名にふさわしい天使のように美しい顔立ちをした彼は背も高く、容姿には欠点などない。そんな彼の隣にいると、小柄で低い鼻にそばかすもあるマリーはよく自信を無くす。 「まったく、君は素直過ぎて心配になるよ」  ため息交じりに言われてマリーはむっと唇を尖らせる。 「だから君を選んだのだけど」 「ねぇ、なんで私を選んだの? 隣の屋敷って言うのが理由ならリリーでもよかったわけでしょう? そもそも身分だって姫って言われるほど高貴じゃないし」  ガブリエルは長い黒髪をくるくると指に巻き付けて流す。リリーはマリーの姉ですらっとして背が高く美人でガブリエルに釣り合うのは自分ではなくリリーだとずっと思っていた。 「シュヴァリエらしく守るべき姫が欲しかったから、色んな子に会ったんだけど、僕には君が一番かわいくて、一番魅力的に見えた。本が好きなところもいいなって思ったし、君ならきっと素敵な話し相手になってくれると思ったから選んだんだよ。実際君は面白いし、僕に遠慮しないから話してて楽しい」 「それはどうも! ちびでそばかすもある上に気の強いどうしようもない私をそう言ってくれるのはあなただけだわ!」  思わずそう言ってしまってから、過ちに気付いたが遅かった。ガブリエルがひどく悲しそうにため息をつく。 「僕、君のその癖だけは好きになれないんだ。小柄なのも、そばかすも気の強いところも僕はかわいいと思っているし、長所だって思ってる。自分をけなすのはやめてほしい」  マリーは何も言えずにうつむいて唇を噛む。いつもいつもすらりとして美人な姉と比べられてみっともないといわれるせいで卑屈になっているのは否定できない。それに中性的で美しいガブリエルにそんなことを言われても素直に受け取れるはずもない。 「欠点のないあなたにはわからないわ……」 「欠点か」  ガブリエルは長い足を組んで膝を抱える。 「僕に欠点がないなんて気のせいだよ。確かに容姿には欠点がないと思う。かなり自信がある。でも、周囲の僕の評価はきれいなだけで役立たず。いつだったか天使像の代わりに立ってるほうが役に立つともいわれたよ。シュヴァリエの称号を持ってるからすごいってこともない。わざとそうしてる部分もあるけど、君は僕の性格をどう思う?」  マリーが何も言えないでいるとガブリエルがまた口を開いた。 「変な奴で面倒くさいし、軽薄だって思ってるでしょ?」  マリーは少し迷ったが頷く。ガブリエルの容姿に欠点があると思ったことがないが、本人が言った通り性格には難があるとしか言えない。 「申し訳なく思わなくていいよ。事実だからね。自分でもどうかしてるって思うよ。さらに無断欠勤の癖まである。いい歳しておかしいってわかってても動けなくなるんだ。ひどい日は声さえ出ない。連絡のために手紙さえ出せないのはそういう理由。それが欠点じゃないとは言えないよね?」 「そうね……」 「完璧な人間もどこかにいるかもしれないけど、今のところ会った事がない。誰しも欠点はある。コンプレックスも。それが心か、容姿の問題かってだけ。ほめた直後にまくしたてるように欠点だってあげつらわれると悲しいなって僕は思うよ」  アーモンド形のきれいな目で優しく見つめられてマリーは目を伏せる。せっかくガブリエルがほめてくれたのに失礼なことを言ってしまった。それはわかっている。 「でも、マリー、君の気持も大切だ。リリーみたいな型通りの美人の姉さんがいたらそんなふうに思ってしまうのも仕方がないと思うよ」  ガブリエルはマリーの複雑な気持ちをもすくい取って認めてくれた。マリーはふと息をついて顔を上げる。 「ごめんなさい、ガブリエル。今日のあなたはそんなに元気じゃないはずなのにひどいことを言ってしまったわ」 「大丈夫だよ。マリー、君はとっても魅力的だ。きっといつか素敵なマドモアゼルなるんだろうね」  マリーはその言葉にふとため息をつく。 「まだ認めてくれないのね、ガブリエル。私がもう十六だって忘れてない?」 「えっ」  ガブリエルは心底驚いたというような顔をしていた。 「嘘でしょ? 知らなかったって言うんじゃないでしょうね?」 「あー、その……」  ガブリエルは気まずそうに口元を隠す。そんな仕草まで様になるのだからきれいな顔をしているというのは得だとマリーは思う。 「なんて言うか、君が十三のころからそばにいるから全然大きくならない気がしてて……そうだよね……ごめん、僕の天使。毎年誕生日のお祝いはしていたのにね」 「いいわ。ちょっと驚いただけ。ねぇ、今日こそガブリエルが何歳か教えてくれる?」 「それとこれとは別問題」 「なんでそんなに隠したがるの?」 「なんでそんなに知りたがるの?」  まっすぐに見つめられて何も言い返せなくなった。ガブリエルの年齢は誰も知らない。容姿だけ見れば十代後半にさえ見えるが、そんなに若いはずがない。そこまで隠すのには何か理由があるのだろう。マリーが何も言い返して来ないと認識したのか、ガブリエルの目がふと緩んだ。 「知らないほうが楽しいよ。ところで実はもう五時を過ぎたって知ってた?」 「えっ、嘘!」  書庫は窓がなく時間が過ぎたことに気付きにくい。慌てて置き時計を確認すれば針は五時半を回っていた。 「送って行くよ」 「ありがとう、ガブリエル」  ガブリエルは馬で屋敷まで送ってくれた。歩いて行き来できる距離ではあるのだが、大事な姫を歩かせたくないと言われては断れるはずもない。それに暗くなった道は危ないから彼にとっては当然の配慮なのだろう。屋敷の前で馬を下ろされ、お茶くらい飲んでいったらいいと誘ったが、案の定断られてしまった。こういう日はあまり人と会いたくないらしい。それでも自分とは話をしてくれたことがマリーは少しうれしかった。
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