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翌日、ガブリエルはいつものようにやって来た。護衛というのは名ばかりで実質は教育係に近い。ガブリエルのマナーはいつも完璧で美しい。髪を長い時間かけて整えるようにマナーも完璧であることが彼にとっては重要なことの一つらしい。どんな時も完璧で美しく。それが彼の口癖だ。
「マリー、カップはダンベルじゃないんだ。もっと優雅に持って」
いつものように注意されてマリーはため息をつく。
「そんなに重そうに見える?」
「残念ながらね。一回置いて、人差し指と親指で軽く摘まんで中指は添えるだけ。小鳥を指にのせるように優しく優雅に……そう、できるじゃないか。素敵だよ、マリー」
ガブリエルはその日の気分でマリーに何を教えるか決める。それで平均的に伸びているのだから、彼の指導力は卓越しているとしか言えない。ガブリエルは楽しく話せるように導いているというが、まさにその通りなのだろう。同等に話をするには同等の知識と勘の良さがいる。マリーは元々勘がよく、本好きなことも相まって賢い子供だった。そこに自らの知識を余すことなく教えて、同等の話し相手に育てようというのだ。
近頃マナーに力を入れているのは学業のほうがあらかた片付いたと感じられているかららしい。マリーはおっとりした美人の姉と跡取りになる弟の陰で比較的放っておかれた部分がある。そこにさらにガブリエルの登場で両親どころか家庭教師たちも手出ししなくなってしまった。それもガブリエルにとって予定通りだったのか、思案の外だったのかはわからない。
ガブリエルはいつも丁寧に教えてくれるから不満はないのだが。
「ねぇ、ガブリエル、昨日、カミーユからあなたがドラゴンに呪われてるって聞いたんだけど、本当?」
「突然だね」
ガブリエルは優雅なしぐさでティーカップをソーサーに置く。ガブリエルは雑談を基本的に拒否しない。話したくないこと、話す必要のないことであれば突っぱねてくることもあるが、マリーの好奇心は基本的に阻害しない。
「君はドラゴンを見たことがある?」
「ずっと遠くを飛んでいるのを子供のころに見たきりよ」
ドラゴンは決して数が多いわけではなく、切り立った断崖や険しい山にごくわずかに生息している。火山に住むものは気性が荒く、恐れられていた。
「そうか」
ガブリエルはふと息をついて黒い革手袋を外した。マリーはガブリエルが手袋を外すのを初めて見た。マリーは思わず息をのむ。その手はガブリエルの美しく完璧な姿からは想像もできないほど焼けただれていた。マナーにうるさい彼がどんな時も手袋を外さなかったのはそれが理由らしい。
「ドラゴンの血と炎で焼けちゃったんだ。ドラゴンを殺したのは本当」
「なんでドラゴンを殺したの?」
ガブリエルはひどく悲しそうに笑った。
「僕の親友を殺したんだ……彼らドラゴンにとって人を殺すのは僕たちが肉を食べるために動物を殺すのと同じだってわかってても許せなかった……僕らが巣に近づき過ぎていたのも原因の一つだっていうのもわかってはいるんだけど……首を落としても、心臓を串刺しにしても許せなくて、気付いたら心臓を食べてた……ひどい味だったよ。死ぬかと思った。その時、ドラゴンに呪われたと言えばそうかな。もうずっと昔の話だ」
ガブリエルは疲れたような顔で曖昧に笑った。彼がドラゴンと戦ったことがあるといううわさは聞いたことがあったが、実話だとは欠片も思っていなかった。卓越した剣の腕があるとは聞いていたし、いつも宝石で飾られた長い剣を携えてはいるが、そんなことを信じられるはずもない。けれど、それが嘘ではないのはその手の火傷を見ればわかる。普通の火傷とは思えない。その肌に炎のような黒い模様が浮かんでいるのだ。
「ねぇ、呪いってどんな呪い?」
「好奇心旺盛なのは素晴らしいけど、話さないよ。君に気味悪がれたくないし、僕の話し相手を一生してくれる覚悟がないなら聞かないほうがいい」
いつもの冗談かと思ったが、ガブリエルのブルーグレーの目がひどく冷たくて、それが冗談ではないと知れた。それでもマリーは好奇心に抗いきれずに口を開く。
「それって不老不死?」
「雑談はおしまいだよ、僕の天使。次はお茶の注ぎ方だ」
ガブリエルはきっちりと手袋をはめ直す。もう話してくれそうにない。ガブリエルが拒否したときは食い下がっても絶対に話を聞けないし、ひどく冷たい目で見つめられる羽目になる。普段は優しく温和なガブリエルにそんな目で見られると泣きたくなる。だから、マリーは食い下がることは基本的にしない。
マリーは前回教えられたとおりにティーポットを持つ。
「紅茶をもう一杯いかがですか? ムッシュ」
「いただきます、マドモアゼル。でも、その前に手がプルプルするのを止められるかな? 脇をしめて、そう。上手だ」
マリーはガブリエルのティーカップをソーサーごと取って紅茶を注ごうとしたが、手を止められた。
「カップが揺れているよね。そのまま注ぐとこぼす原因になる。身体から離れると不安定になるからもっと体に引き寄せて注ぐんだ。そう、いいね」
小柄なマリーは非力で、重いものを持つとどうしても手が震えてしまう。けれど、ガブリエルの指示は的確で、言うとおりにすると楽に持てて震えなくなる。カップにお茶を注ぎ、置こうとした手が震えそうになったらすぐにカップを取ってくれた。
「マリー、先にカップを置きたい気持ちはわかるんだけど、君の場合、先にポットを置いたほうが安全だ。確かに少し不格好かもしれないけど、こぼしてしまうよりはずっといい。もう一回できるかな?」
「はい」
マリーは言われたとおりにやり直す。今度は失敗せずにでき、ガブリエルがほめてくれた。
「ねぇ、ガブリエル、今日は書庫に行きたいなって思うんだけど?」
ほめてくれたときはおねだりを聞いてくれることが多い。ガブリエルは少し考えるように唇をなぞる。
「いいよ。でも、天気がいいから少し散歩してからね。これ以上君の目が悪くなるとセラフィーヌ子爵に小言言われそう」
「私の目が悪いのは元々だわ。確かにあなたの書庫に出入りするようになってますます悪くなったのは事実だけど……」
マリーは日によって眼鏡をかけていることもある。父には女のくせに本ばかり読むなと言われるが読書をやめる気はない。ガブリエルは本を読むことを規制しないが、目が悪くなることを気にしている。目が悪くなると目つきが悪くなるというのが理由らしい。ちらと話題に出したようにクロードにも気兼ねはあるようだ。
「だから、散歩をね? いい季節だよ」
「わかったわ。馬にのせてくれる?」
「もちろんだよ、僕の天使」
マリーは差し出された手を取って立ち上がる。マリー=アンジュだから天使と呼ばれることに最初は抵抗もあったが、今はすっかり慣れてしまった。ガブリエルのエスコートはいつも完璧だ。いつものように馬にのせてもらい、馬の首を撫でる。ガブリエルが後ろに跨り、手綱を持つと後ろから抱きかかえられる形になるのが近頃、少しだけ恥ずかしい。けれど、マリーは一人では馬に乗れない。それに歩くよりも馬に乗せてもらってあちこち行くほうがマリーは好きだった。
「ちゃんとつかまった?」
耳元でガブリエルの低い声がしてドキリとする。
「ええ」
返事をすればガブリエルは馬をゆっくりと歩かせ始めた。馬のしなやかな筋肉の隆起を感じる。その独特の揺れがマリーは好きだった。
「今日は丘まで行ってみようか」
「そんなに遠くまで?」
「いや?」
「いやじゃないんだけど、本を読む時間が短くなっちゃう」
頭上から少し困ったようなため息が聞こえた。
「君って本当に本の虫だね。今日は外国語の本を翻訳して読んであげるから付き合ってくれる?」
「それならいいわ」
外国語の本を読んでもらえることは少ないからうれしくなって、ガブリエルの広い胸にとんと頭を預ける。
「好きよ、ガブリエル」
「僕も好きだよ」
軽くかわす言葉に意味はない。教師と生徒、騎士と姫、それだけだ。
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