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翌日、いつものようにガブリエルはやって来た。マナーのおさらいの合間にマリーは意を決して口を開いた。
「ガブリエルは結婚しないの?」
唐突な問いにガブリエルは目を泳がせた。
「突然どうしたの? 僕の天使」
「リリーが顔も知らない伯爵様に嫁ぐことになったの……」
ガブリエルはブルーグレーの目をすっと伏せる。黒く長いまつげが顔に影を落とした。貴族社会ではよくあることだからそれだけである程度察してくれたのだろう。
「つまり、顔も知らない誰かに嫁がされる前に僕の花嫁になりたいって思ったってことでいいかな?」
「話が早くてうれしいわ」
ガブリエルはくすくす笑った。
「君のそういう大胆なところ好きだよ。でも、結婚はしてあげられないかな」
予想の範囲内の返答にマリーはガブリエルの目をまっすぐに見つめる。ここで引き下がるつもりはない。
「呪いのせい?」
「そう。君はきっと僕を嫌いになるよ。嫌われるのは慣れているけど、君に嫌われるのはやだなって思うから……」
ガブリエルのアーモンド形の目が悲しそうに光る。
「あなたがどんな呪いにかけられていたとしても嫌いにならないわ」
「口で言うのは簡単だよ。心にないことでさえいくらでも言える。マリー、君のために条件のいい結婚相手を探したり、結婚しなくてもいいように守ってあげたりすることはできるけど、結婚することはできないんだ。ゴメンね」
「そう。いいわ。必ず私と結婚したいって思わせてあげるから」
その言葉にガブリエルはくすりと笑う。
「君って最高だよ」
「あなたが欲しいものはあきらめちゃいけないって教えてくれたでしょ?」
「僕を欲しがるとは欠片も思ってなくてね。そんなしたたかなところも好きだよ、僕の天使」
そう言って笑ったガブリエルが突然目を覆った。
「どうしたの?」
「なんでもない。ゴメン、今日は帰るよ……」
ガブリエルはひどく焦ったようにそう言って立ち上がったが、そのまま崩れるように膝をついた。
「ガブリエル!」
慌てて駆け寄るとガブリエルに制止するように腕をつかまれた。なおも俯いて目を隠したままだ。具合が悪いにしても様子がおかしい。
「大丈夫だから、一人にしてくれないかな……休めばおさまるから……」
ひどく余裕のない声だった。ガブリエルがこんな声で話すのを聞くのは初めてでマリーは迷う。
「でも……」
「いいから! 早く! 痛っ……」
ガブリエルが痛みにうめき、座っているだけでも辛いのかうずくまってしまった。
「頼むよ、マリー……一人にして……もぅ……ぐっ、ぅ……」
「頭が痛いの?」
「話すだけでも痛い……部屋を暗くして、一人に……うぅ……」
辛そうに頭を押さえているガブリエルが心配だったが、マリーは言われた通り部屋を暗くする。ガブリエルのうめき声はますますひどくなっている。
「本当に一人で大丈夫なの?」
「慣れてるから……早く!」
叫ぶような声にマリーは出ていくことにした。ガブリエルが心配だが、そばにいてはいけないということだけはわかる。背を向けても、薄闇の中でもだえ苦しんでいる気配がする。マリーがドアノブに手をかけた瞬間、ガブリエルが絶叫した。マリーは驚いて思わず振り返る。
ガブリエルの姿を見てマリーははっと息をのんだ。ガブリエルの頭に黒々とした大きな角が生えている。それは昔、絵本で見たドラゴンのねじれた角にそっくりだ。荒い息を吐きながら身体を起こしたガブリエルが顔を上げた。薄闇の中で爬虫類のような縦長の瞳孔の金の目が爛々と光る。ガブリエルの目はきれいなブルーグレーのはずで、そんな目ではなかったはずだ。
「見られちゃったね……」
ガブリエルはひどく悲しそうに呟いた。彼はうつむいて顔を隠すように額に手を添える。その姿をあまり見られたくないのだろう。
「これがドラゴンの呪い……たまに体の一部がドラゴンに変わっちゃうんだ。いつか本当にドラゴンに変わるのかもしれない……怖いだろう? 最近変わっちゃうことが多くて、そのせいでよく休んでたんだ。君に知られる前に火口に飛び込もうと思ってたのに、君のそばにいたくて粘った結果がこれだ。滑稽だな……」
ガブリエルの頬を涙が流れ落ちる。ガブリエルが泣くことがあるとはマリーは想像さえしていなかった。そうしてあることが彼にはそれほど苦痛なのだろう。
「君の声を聞くと元に戻れることが多かったんだ……でも、君の前で変化しちゃったってことはもう終わりだ。完全にドラゴンになってしまう前に火山に行くよ。マリー、君のことが大好きだよ」
マリーは思わずガブリエルを抱きしめる。その姿が怖いとは欠片も思わなかった。
「ガブリエル、大丈夫よ……私、あなたがどんな姿でも好きよ」
マリーが瞼に口づけを落とすと目が元に戻った。
「え?」
不思議に思いながら角にも口づけを落とすと、ガブリエルは完全に元の姿に戻った。彼は驚いたように頭に触れる。きれいな黒髪がわずかに乱れてはいるが、角は消えている。
「マリー、何をしたの? 一度変化してしまうと短くても数時間戻らないのに……」
「キスしただけ。ガブリエルが辛そうだったからおまじないのつもりだったけど、効いたわね」
マリーにも何が起きたかよくわからなかった。特別なことをしたつもりもない。ガブリエルは気が抜けたように笑った。
「僕の天使は本当に最高だよ……」
「結婚する気になった?」
ガブリエルはさっと立ち上がって、髪を整える。
「それとこれとは別。今日の変化はかなり軽かった。翼や尻尾まで生える日もあるし、身体がびっしりとうろこに覆われることもある。君が受け止めきれるとは思えない」
見られた以上隠す気はないが、一線を越えさせる気はないといった口ぶりだった。マリー自身そう簡単に事が進むとは思っていない。
「信用がないのね」
「伊達に長く生きてない。誰しも心変わりをするものだよ」
「私はしないかもしれないじゃない?」
ガブリエルは呆れたように目をくるりと回してため息をつく。何か言おうとした口を一度閉じて、もう一度開く。
「君みたいに純粋でまっすぐな心はずいぶんと前になくしちゃってね。僕が信じられるようになるまで挑戦を続けてくれるなら結婚してもいいよ」
どうせすぐ諦めるだろうとでも言いたげな口ぶりにマリーはカチンときた。自分自身の未来や尊厳もかかっているのだ。簡単にあきらめるつもりはない。ドラゴンのような目と角には驚いたが、不思議と怖いと思うことはなかった。どんな姿でもガブリエルだとわかっていたからだろう。だから、マリーには逃げ出さない自信があった。
「絶対に諦めてあげないから。あなたが休んだ日は必ず行って変化してしまったところにキスをしてあげる。鍵を開けて待ってなさい!」
「ご自由に! ドラゴンが待ち構えてて、泣いて帰るはめになっても知らないからね!」
ガブリエルもムキになっているようだった。彼自身信じたい気持ちもあるのかもしれない。
「一度でも私が逃げ帰ろうとしたら食べてもいいのよ?」
「大人を挑発するものじゃないよ」
「もう子供じゃないわ!」
ガブリエルが突然距離を詰め、唇を奪った。マリーは顔が熱くなるのを感じた。
「キスで赤くなるようじゃまだまだだね」
余裕の笑みを浮かべられてマリーは思わずガブリエルの胸をポカポカ殴る。彼にとってはどうでもないことかもしれないが、マリーには特別だった。それをこんな急に奪われるなど想像もしていなかった。
「なになに? そんなに怒らなくてもいいじゃない?」
「ファーストキスだったの! ガブリエルのバカ!」
ガブリエルはその言葉でやっと思い至ったのか申し訳なさそうにする。
「ゴメン……」
「絶対結婚してもらうから!」
「うん。だったら信じさせて、僕の愛しい天使」
優しい目で見つめられてマリーは訳がわからなくなる。よく表情を変えるガブリエルのブルーグレーの瞳はいつも本当のことを包み隠してしまう。
「ガブリエルは私のことどう思ってるの?」
「好きだよ」
即答された声からは感情が読み取れない。だが、これまでの子ども扱いとは少し違っているような気がした。
「信じさせてくれたら教えてあげる」
「狡いのね」
「君だって政略結婚させられたくないから僕と結婚したいって言ってるだけじゃないの?」
マリーはぐっと言葉に詰まる。何も言い返せない。ガブリエルが身近で高貴な独身男性ではなかったらこんなことは考えもしなかっただろう。それにドラゴンの呪いのせいで結婚できないと言われてムキになって意地を張っているのも事実だ。
「好きだけど、ときめかない……」
「うわ……思ったより傷つく……」
「ならときめかせてよ、シュヴァリエ・ラファラン?」
「大人の本気見せてあげるよ」
二人はじっとにらみ合う。こうして二人の新しい奇妙な関係が始まった。
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