「幸せ」

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「誠一さん?」  はっきりとした輪郭のある声だった。夢でも思い出でもない。現実を生きる声に、意識が引き寄せられる。  見慣れた自分の部屋よりも早く、周の顔が視界に入った。ベッドの中で顔が向かい合う。 「こわい夢でも見たの?」  隣から心配そうな表情で見つめられる。明日(もう今日か)からの旅行のため、前日から泊まりに来てもらったのだ。すぐに車で出発できるから、と。 「あ、いや。こわい夢じゃなくて、昔のことを思い出しただけで」 「でも、泣いてるよ」 「え」  周の指が目の下に触れる。そっと拭われ、自分が泣いていることをようやく理解する。 「年を取ると涙もろくなるって言うからな」  あれは幸せだった頃の記憶だ。泣きたくなるような出来事なんてまだ何もなかった頃の。でも、泣いている。胸の奥が痛みを鳴らしている。 「大丈夫?」  大丈夫だよ、といつものように答えようとして、うまく声が出なかった。大丈夫。もう大丈夫。あいつがいなくなってから二十年も経っているのだ。手がかりも探す気力もとっくに尽きている。俺は目の前の周を大切にすると決めたのだ。 「大丈夫だけど、ぎゅってしてほしいな」 「誠一さんが甘えるなんて珍しいね」 「我慢してたからね」 「そうなの?」 「十も上のおじさんに甘えられたら困るだろうなって」 「そんなことないのに」  ふふ、とくすぐったそうに笑いながら周が近づく。タオルケットから出た細い腕が背中に回され、きゅっと空気が押し出される。温かな体温と柔らかな匂いに、鳴っていた痛みが遠くなっていく。 「これでいいの?」 「うん。ありがとう」 「どういたしまして」  くすくすと揺れる胸に顔を埋めながら、今が一番「幸せ」だと思った。
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