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戦争に負けたらしい
戦争に負けたらしい。
らしいというのは、詳しく教えてくれないからわからない。だから、侍女たちの噂から推測するしかない。
戦争に負けたのに、王宮内はいつもとかわらない。
お父様やお母様やお兄様たちやお姉様たちも、いつもとまったくかわらない。
朝から皇族御用達の商人を呼び寄せ、ワガママ放題を言っている。
お父様とお母様が溺愛されている二人のお姉様たちのわがままをかなえる為である。
お姉様たちは、つぎは「双頭の竜」というブレスレットを欲しているらしい。
それは、その名の通り二つの宝石からなるペンダントという。
それをひとつずつ所持したい。
それが、お姉様たちの願い。
お父様とお母様は、その願いをかなえるべくすぐに商人を呼び寄せた。
(いいのかしら……)
戦争に負けたというのに、皇族がこんなことをしていていいのかしら。
謁見の間の床を磨きながら、考えずにはいられない。
どうしていまこのタイミングでここの床磨きをしているのかというと、お父様たちに命じられたからである。
「つねにわたしたちの視界に入るところで働いているよう」
わたしは、他の家族と容姿が異なる。わたしだけ、黒髪に黒い瞳。それは、家族にとって恥でしかない。その上、わたしにはいかなる力もない。十年以上前に判明し、その際にそう命じられた。
それ以降、つねに家族の前で働いている。もちろん、家族のいないところでも働いている。
それが「残りカス皇女」と呼ばれているわたしに出来る唯一のことだから。
だから、このときもこうしてせっせと床を磨き続けている。
床磨きも奥が深い。ツルッツルのピッカピカになったとき、大理石の床がよろこんでくれる。
床を磨くときだけではない。料理を作るときは食材がよろこんでくれるし、ベッドメイクのときは寝台が、窓拭きのときには窓ガラスが、それぞれよろこんでくれる。洗濯なんて、衣服やシーツがどれだけよろこんでくれることか。
よろこんでくれるのがうれしくて、張り切ってこなしてしまう。
こうして、わたしはいろいろな物のよろこびを享受し、しあわせをかみしめている。
(ダメダメ、集中しなくては)
王座の周囲で行われているやり取りから目を背け、耳をふさごうとした瞬間、謁見の間の豪壮な扉が勢いよく開き、宰相が飛び込んできた。
「陛下、一大事です」
そして、そう叫んだ。
その叫び声が、まさかわたしの運命を大きく変えるとは想像もせず、わたしは大理石の床をひたすら磨き続けた。
今日もツルッツルのピッカピカにするわよ、と気合いは充分だった。
「絶対にイヤよ」
「そうよ。お姉様がかわいそうすぎる」
宰相がもたらしたのは、上のお姉様の嫁入りの話だった。
わたしたちとの戦争に勝利したレストン王国の王子で、この戦争でも大活躍した「氷の剣士」のお嫁さんになるという。
つまり、よくある人質である。
上のお姉様は、この「大陸一の美妃」と評判が高い。しかも、皇族に受け継がれている聖なる力の保持者でもある。だから、様々な国の王子や皇子たちが列をなしてプロポーズをしている。
そのお姉様がついに婚儀を……。
「お父様。『氷の剣士』と言えば、粗暴きわまりなく醜悪な外見らしいわ。レディにだって平気で暴力をふるうそうだし。いくら負けたからといって、わたしをそんな男性のもとに行かせるつもりですか?」
「そうは言ってもな。戦争に負けた以上、習わしで人質を差し出さねばならない。わしだっておまえをそんな男のもとにやりたくない。だが、向こうがおまえを指名している」
「お父様、わたしに死ねとおっしゃるのですね。だったらミヤ、あなたが行きなさいよ」
「お姉様。お姉様同様、わたしの聖なる力もこの国にとって重要なもの。お兄様たちとお姉様とわたしは、力を合わせてこの国を慈しまなければならないのです」
「やめなさい」
「でも、お母様」
「身代わりを立てるのなら、ちょうどいいのがいるわ」
せっせと床磨きを続けていると、急に静かになった。
痛いほどの視線を感じる。
顔を上げると、いくつもの顔がこちらを向いている。
「『残りカス皇女』が、やっと役に立つ」
玉座にいるお父様がわたしに笑いかけている。
その初めての表情に、ただただ戸惑うばかりだった。
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