次の夏(妄想編)

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ここのコーヒー美味しいなあと思いながらも、最初のひと口だけでそのまま氷が溶けていくグラスを見ていた。濃くてほのかに甘いコーヒーが、溶けた氷で薄くなり、表面の水の膜を厚くして行く。 視線をどこに置くかと迷いながら、汗をかいたグラスからすべり落ちて行く水滴と、滲むコースターの模様を眺めていた。古びて錆びたような色合いで描かれたコースターのレトロなモガが濡れて泣いている。ふと壁に目を移すと、古い木製の細いフレームの中に同じ色調で描かれた黒いドレスのモガがわたしを見てにんまりと笑っていた。思わずにんまりと笑い返してやりたくなった。 少し暗く、静かにジャズの流れる店内は、あの人好みの店なんだなあと思いながら二度とここに来ることはない、と思った。 あの人は言葉に詰まっている。わたしの気持ちを翻す言葉はもう尽きている。なぜもう一度会って話したいなんて言いだしたんだろう?どんな言い訳をすれば、なんとかなるなんて思ったんだろう? メッセージだけでさよならなんて嫌だ、会って話したいなんて言いだすからこんなことになっちゃう。わたしにはもう話すことは何にもない。そしてあの人もわたしを引き留める言葉はなにひとつ持っていない。 わたしはもうひと言も発しない。わたしの言葉ももうすでに尽きているから。 伝票をつかんで 「クルマで来ているから、送っていくよ。駐車場まで少し歩くけど。」 そんなことをなんのためらいもなく言ってのけるあの人の顔をまじまじと見てしまいそうになった。 ほんの数分前に、今日、これで最後よ、もう会わないと言ったわたし。そのあとの沈黙に耐えられなくなったように席を立ったあの人。 送って行く?なぜ? 一緒に帰る??なぜ? 一緒にクルマに乗る?なぜ? そんな発想は、わたしにはない。 「ううん。電車で帰るから。」 振り返るな!自分に言い聞かせて早足で駅の方に歩き出す。あの人はわたしの後ろ姿を見ているのだろうか?それともさっさと駐車場へと歩き出したのだろうか。 駅に向かう道から逸れて右に曲がったわたしを見て、どこへ?と思えばいいのに。 買ったばかりのワイヤレスイヤホンを耳に押し込んで、スマホの再生ボタンに触れる。早口の会話が流れていく。 まだ陽は高く、青い空にほんの少しの雲がくっきりと存在を主張していた。暑い。冷たいビールでも飲みたい気分。
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