開かず

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 ただ、「開かずの準備室」に足を向ける勇気はなかった。  あの日、由香が命を落としただろう現場。そして、恐らくそれがきっかけで姿を消した那月。胸がギュッと締め付けられる。  退校時刻の過ぎた美術室の戸を引いた。  美術室は群青に染められている。大会が近い部活があるのか、グラウンドの夜間練習灯が美術室を微か照らしていた。  十四年経っていたが、美術室の様子は変わっていなかった。テンビン油の匂いやら、陶器を作るための土や釉薬の匂いも混ざり、独特な香りが漂っている。  少々異なっていたのは、当時なかった石膏の彫像が増えていたことだ。他の学校にもあるような神話の英雄を模したものとは異なり、恐らく生徒が作ったものだろう。自分の首を作ったもの、等身大の裸婦まで大小さまざまだった。中には生徒が作ったとは思えない大作まであった。  尼崎先生は彫像を専門としている方だったから、それをこの学校の特色として成立させたのかもしれない。美術は特に、その学校の選任教師の色が出ると思っている。  美術室をひとしきり見たあと、私は美術準備室の扉を開けた。 現在の美術教師は臨時講師が務めているため、準備室に常駐しているわけではない。長年使用したにおいはあるものの、室内は比較的整然としていた。こちらも、私が通っていた当時と大きな差はない。  窓辺に置かれた机に近づく。窓が開いていて、グラウンドで練習をする生徒の声が入ってくる。教職員用のファイルと共に、絵筆などが木筒に立てられていて、脇にはマグカップが伏せてあった。  かつて、ここで尼崎先生と共に紅茶をよく飲んでいた。今は何もないが、棚には先生が持ち込んだケトルがあって、瓶に詰められた色んな種類の紅茶を飲んだ。私は特にダージリンが好きだったが、今ではどういったメーカーのものだったのか思い出せない。  机の表面をさっと撫でる。  かたん。  背後で音がした。  振り返るが、何かが動いた気配はなかった。周囲を見回してみても、特に壊れたものはなさそうだ。  気のせいかと踵を返すと、もう一度「かたん」と確かな音がした。  背筋がスッと冷えた。  音がしたのは、棚の向こうにある、書道準備室とつながる扉だ。  かたん。かたかた。かたん。かたん。  棒となった足を一歩進める。万が一にも、不審者がいるのであれば対処しなければならない。まずは、姿勢を低くして、磨り硝子に自分が映りこまないような姿勢で扉に耳を付ける。 「あけみ」  思わず後じさった。隣にある棚に肘が当たり、置いてあった石膏が落ちて割れた。  視界に磨り硝子が入る。  扉の向こうからは変わらずがたがた、かたん、という音が続いている。 「明美」  由香の声だった。    本来であれば、亡くなった親友の声が聞こえるのだ喜ぶべきことだろう。しかし、そうは思えなかった。  彼女は死んだはずなのだ。葬儀にも参列した。この向こうにいるはずがない。  何とか逃げようと美術室の方へ身体をずらすと、当の美術室から笑い声が聞こえた。 「誰かいるの!?」  声をかけるが、笑い声が止むことはなく、声の主が反応することもない。それどころか、どんどん声は大きくなっている。  何かが起こっている。  書道準備室の扉を振り返ると、磨り硝子に黒い人影が映っている。後にも先にも、逃げ出すことができない状況で、私は床に顔を臥せった。    びゅうっという音に驚いて窓を見ると、風にカーテンが煽られた。煽られたカーテンは置いてあったマグカップを浚い、落とす。  私はマグカップが床へ落ちていくのを見ていた。  それが割れたとき、記憶が滝のように流れ込んできた。  由香が亡くなった日、書道準備室に私は一人でいた。  テスト勉強に入る前に、先生に会いに行ったのだが、すでに彼女は帰った後で、なんとなく私は準備室で暇をつぶしていたのだ。 そこへ由香が来た。  由香とはテストの話を端緒にいろいろと話をしていたはずだったが、なんの話だったか彼女が言った。 「明美の家は大変だよね。地元の大学に行くのも仕方ないと思う」  別に何でもない一言だ。大した意味もなかったのだろう。  由香はいつもそうだった。    いつもいつもいつもいつも。いつもいつもいつもいつも、いつだって。  私を憐れんで、私をかわいそうに思って、私に同情して、私を見下していた。  彼女はそういった感情を、無意識に表す天才だった。その日もそういった流れの一部だったのだが、胸の中にある器が溢れてしまったのだ。  気づけば、彼女は書道準備室の下の茂みに落ちて動かなくなっていた。  それと同時に、叫び声が聞こえた。  振り返ると、那月が口を覆って立ち尽くしていた。  そこからは無我夢中だった。那月に関しては、完全にとばっちりだったとしか言えない。  気づくと私は、倒れた那月と共に書道準備室に座り込んでいた。私は恐怖に駆られ、美術準備室への鍵を開けると、美術準備室の床に蹲った。    どれくらいそうしていたのだったか、夕暮れ時に美術準備室のドアが開き、尼崎先生が驚いた顔で私を見た。先生は、忘れ物を取りに来た、と言った。  私は先生に飛びつくと、声を上げずに泣いた。  私の切れ切れの話を聞いて、先生は静かに現場を検めた。 「大谷地さんには息があるわ。血も出ていない」  顔を上げ「じゃあ」と声を上げた私に、尼崎先生は首を振った。 「だめよ」  何が、とは言えなかった。  先生と私は母と子だった。だから「だめ」なのだ。  先生は陶器を焼成する際に使う軍手をはめ、帽子を被った。 書道準備室に石膏像が運搬されてきたときの大きな段ボールを持ってくると、それに那月と、私が二人を襲うのに使った壺を入れた。  特別棟にはほとんど人がいなかった。物品運搬用のエレベーターに乗せてしまえば、職員駐車場までは一階にある裏口からすぐだった。  先生はエレベーターに乗り込む直前、私に言った。 「このことは忘れなさい。あなたは書道部だし、準備室に痕跡が残っていても、疑問に思われることはないでしょう。私が学校に戻って来たことも忘れなさい」  そう言うと先生は、私が握っていた美術準備室の鍵をひったくり、エレベーターのドアを閉めた。  先生からの助言の必要もなく、私にとっては相当なショックだったのだろう。私は忘れた。すべてを忘れてしまった。    なぜ、母子のようだった先生に連絡を取らなかったのか。  なぜ、美術準備室の鍵をなくしてしまったのか。  先生は那月をどうしたのか。  美術室の石膏は、すべて生徒が作ったものなのか。  美術室の独特の匂いは、本当に美術道具が発するもののみなのか。  十四年前になかった二つの怖い噂——開かずの書道教室と、……美術室の彫像の声がなぜ生まれたのか。  そういった大事な事象を、自分の記憶と結びつけることを放棄していた。  気づくと私は、美術準備室の窓の下で蹲っていた。  冷えた風がふきこみ、机から落ちた書類を巻き上げる。ナイター練習が終わったのか辺りはすっかり暗くなり、グラウンドの声は聞こえなくなっている。  美術室からは相変わらず、彫像の中で呻く那月の声がしていた。それを聞きたくなくて、再び耳をふさごうとした時。  がちゃり。  書道準備室への扉が、開く音がした。
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