開かず

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 十四年ぶりに教師として戻ってきた母校には、いまどき『七不思議』というような怪奇譚群があるようだった。  誰もいないはずのトイレから少女が現れる、美術室の彫像から声がする、夜の音楽室からピアノの音がするなどといったありきたりな話ばかりだ。本来であれば、混乱を招き、規律を乱す可能性のある夢幻だとして、「そんな話をすべきでない」と生徒を諭すが私の役目なのだろう。  ただ、その中の一編が、私の心に杭を打ち込んだ。  それを聞いたのは、放課後の教室だった。  あたりは藍を帯びてきており、残っていた女生徒たちに退校時刻が迫っていることを告げた。彼女たちは名残惜しそうに、返事をして帰宅準備を始める。  中にいた一人、佐々木さんが私に尋ねた。 「そういえば、明美先生はうちの高校の出なんでしょ? 先生のいたときにも七不思議ってあった?」  明るい印象のある生徒だったので、今どきの生徒もそんな話題で盛り上がるのか、と少々面食らう。 「同級生が怖い話で盛り上がることはあったけれど、校内でどうこう、という話はなかったわ」  気を取り直し、窓に近づいた。その一つが開いていて、掛け金に手をかける。 「え、じゃあ『開かずの準備室』って、昔はなかったんだ」  掛け金を回す手が止まった。 「なあに、それ」 「本当に知らないんだ。昔は書道準備室だったみたいなんだけど、そこから飛び降りた女子生徒がいるらしくって。以来、その部屋にいると、窓の下から何かが落ちたような音がするっていって、立ち入り禁止になったみたい」  私は振り返り、鞄に勉強道具を詰めている佐々木さんを見た。 「いつからそういう噂があるの?」  佐々木さんは首をかしげて、後ろで帰り支度をしていた長岡さんに聞いた。 「いつだか知ってる?」  長岡さんも首を振る。 「いやぁ、私も知らないな。去年までいた美術部の顧問の尼崎先生に聞いたことあるんだけど、『今更、そんなくだらない話するな』って怒られたから」  私は思わず目を瞠った。  彼女たちが「へぇ、そんな先生いたんだ」「あ、そうそう。退職後に再雇用で。産休に入った美術の先生の代わりに一時的にね。去年の年末に突然死んじゃったけど」「ああ、そんなことあったね」と話しを続ける中、 「尼崎先生」 思わず割り込んだ。 「明美先生、知ってるの?」 「……私がこの高校の生徒だった時に、よくして貰った先生なの」  長岡さんは意外そうに「へぇ」という声を上げた。  父子家庭で育った私を、気にかけてくれたのが尼崎先生だった。家ではなかなか父親にわがままが言えず、けれども本質的に甘ったれだった私に、母親のように接してくれた。  旦那さんが結婚間もなく亡くなってしまったそうで、天涯孤独だ、と聞いたことがある。要は、お互いに依存していたのかもしれない。  書道部で暇を持て余していた際などに、美術準備室に呼んでくれ、よくお茶をした。今考えると行き過ぎた贔屓だったと認識しているが、彼女は私に準備室の合鍵までくれたのだ。基本的には美術準備室の鍵は空いていたのだが、私は何となくそれがうれしかった。  その鍵も、今ではどこに行ってしまったのかわからない。  それどころか思いがけない世間話の中で、私はかつての恩師と……そして母親ともいえた人の死を知ったのだ。 「亡くなっていたのね……」 「うん。年末に原因はわからないけど、脳出血かなにかじゃないかって他の先生が話しているのを聞いた。先生のいた頃ってことは、十五年くらい前にもいて、再赴任って感じ?」  私は頷く。佐々木さんと長岡さんは困ったように顔を見合わせた。  長岡さんが気を取り直したように言う。 「話は戻るんだけど、わたし、尼崎先生が言っていた『今更』って言葉が気になってて……、今更ってことは以前に何かあったってことじゃないですか? だからわたし、尼崎先生はなにか知ってたんじゃないかと思うんです」  長岡さんの推察に佐々木さんが盛り上がっている様子だったが、私は彼女たちをただ見つめるほかなかった。  くだらない。……と、そういう風に言えたらどれだけ良かっただろう。私は、書道準備室が開かずの間となった理由に、心当たりがあった。
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