Day1

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   4  夕暮れどき、と言ってもまだ陽は高く、辺りはまだまだ明るいままで、すでに六時を過ぎているというのに、全然夕方って気がしないなか、僕はいつものように店の前に暖簾を掲げていた。  そろそろ仕事を終えた常連客がやってくる頃合いで、店の中では父さんと母さんがそれぞれ準備を始めている。  僕もたまに店を手伝うことがあるのだけれど、酒に酔ったおじさんたちのバカ騒ぎに付き合ってなどいられないので、基本的には三階の自室にこもってテレビを見ているか、ゲームをしているか、そうでなければ漫画を読んでいたりする。  なるべくエアコンを使わないように言われているから、こもっていると言っても窓は開けっ放しで、生ぬるい潮風しか部屋の中には入ってこない。おまけにその潮風の所為か、僕の部屋にある安物のスチールラックは錆びだらけで見栄えが悪くなっていた。  そろそろ新しいのに買い替えるか、或いは錆び落としでも買ってきて頑張って落としてみるか、悩むところだ。  僕は暖簾をフックにかけ終えると、大きく伸びをしてから家々の合間に見える海の方へと視線を向けた。  最近できた小さなコインパーキング、その片隅に残る古い小さな祠の向こう側に見えるその海は、静かに波を立てながら、きらきらと陽の光を反射して綺麗だった。  そこにあるのが当たり前だったから、日々海を眺めるなんてことは特にしないのだけれど、こうして改めて見てみると、それなりに心が洗われる……ような気がしないでもない。  いや、やっぱりしない。海は海だ。いつもと変わらない海がそこにあるだけだった。  確かに綺麗といえば綺麗であることに間違いはないし、これを目的にわざわざ他県から遊びに来る観光客がいて、その観光客が落としていくお金で町が賑わい、発展しているのだから、まぁ全国的に見てもいい場所なのだろう、それは解る。  解るけれども、幼いころから見てきたこの風景が特別綺麗かと言われたら、当たり前だけど、そんなことなど僕ら地元の人間に判るはずもなかった。  僕は「ふぅ」と小さくため息を吐き、くるりと店の中に戻ろうと身をひるがえしたところで、 「んん?」  店の前の道路を、こちらに向かってふらふらと歩いてくる人影に気が付いた。  白い半袖シャツにワイン色のしおれたネクタイ、よれよれの灰色ズボンを履いたその中年男性は、心ここにあらずといった様子で、まるで今にも倒れてしまいそうな雰囲気を醸し出しながら、目の焦点すら合っていないような感じで歩き続けている。  僕はじっとその中年男性を見つめながら、店の前に差し掛かったところで、 「潮見さん、大丈夫? なんかフラフラだけど」  その中年男性――潮見さんに声をかけると、潮見さんはハッと我に返ったように顔を上げ、どこか慌てた様子で、 「お、おぉ、ハルト君か。びっくりした。すまん、気が付かなかった」  先ほどまで、どこか死んだ魚のような眼をしていたその瞳に光が戻る。  仕事が大変だったんだろうか。それとも暑い日差しにやられて、日射病にでもなりかけていたんだろうか。 「水、飲みます? 持ってきますけど」 「あぁ、いやいや、大丈夫だよ。ありがとう。ちょっと疲れがたまっていたんだろうね。最近、仕事のノルマが未達で、上から散々発破かけられててさ。いやぁ、本当に大変だよ」 「そうなんですか。まぁ、あまり無理をしないでくださいね」 「ありがとう、ハルト君は優しいなぁ。うちの娘とは大違いだよ」  うちの娘、というと僕や陽葵とは同じ小学校の出身で、今でも同じ中学に通っている潮見芽衣のことだ。  小さい頃はよく一緒に遊んでいたような覚えがあるけれど、同じクラスになったことは一度もない。  綺麗な顔立ちではあるが少しばかり派手なところがあって、中学に上がってからは似たような友達とつるむようになり、そのせいだろうか、僕らとはどこか疎遠な感じになっていた。  母さんから聞いた話によると、父である潮見さんともここ最近折り合いが悪いらしく、ことあるごとに言い合いの喧嘩になっているのだとか。  まぁ、想像に難くない性格なのは確かだった。 「いえいえ、そんなことは」  と一応謙遜して愛想笑いを浮かべると、潮見さんはやはりどこか疲れたような笑みと声でアハハと笑う。  それから潮見さんは軽く手を振って、 「それじゃぁ、またな。そのうちまた吞みに来るから、お父さんやお母さんによろしく言っておいてくれ」 「はい。あまり無理しないでくださいね」 「あぁ、そうするよ」  小さく頷いて、潮見さんは再びとぼとぼと歩き出した。  そのあまりにも疲れ切った、ヨロヨロの後ろ姿を見送っていると、不意に陸が口にしていた言葉が脳裏をよぎった。 「――無気力症候群」  五月を過ぎた頃、梅雨に入ったあたりから噂になっているという、謎の病気。  同じ学校に通う武田歩の父親は、体調不良を理由に仕事を休みがちになり、ついには会社を辞めてしまったという話だったけれど。 「まぁ、まさかね」  僕は呟き、店の扉を横に開いた。  そんな病気に、そうそうかかるわけがない――そう思いながら。
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