第三章 可視

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第三章 可視

ライブ終了後、俺はまだ泣いていた。 涙は洪水のように頬の上を通り地面にぽたぽたと落ちていた。 体は完全に狼人間になり、着ているセーターの間からも獣の尖った毛がはみ出していた。 一体何の涙なのかはわからなかった。 ただ本当に帰りたい。でも帰れない。という思いが涙を生んでいた。 どこに帰るの? それはわからなかった。 ギターを力強く握り、自分の頬を叩くと、なんとなく気持ちが入れ替わったような気がした。 「雅人、またやっちゃったね、大丈夫?」 実咲が静まったステージの裏で腰を下ろす雅人に声をかけた。 彼の声を聴くと、彼から生えた毛や牙は少しずつ引っ込んでいった。 「この前は観覧車の中だったよね、全然平気だよ」 雅人は笑いながら余裕を見せた。 普段の姿に戻ると、あの帰りたいという異常な懐かしさ(ノスタラジック)はは消える。 でもその余韻は僅かながら残り、また何かわからないまま次の満月の日を迎えるのが決まりだ。 「そっか、雅人、でもあれは何の涙なんだ?」 「言いたくなかったら言わないでもいい。今まで避けてきた話題だから」 実咲は雅人を不安にさせないように笑顔で言った。 彼がいなければ俺の人生は終わってたんじゃないか。 「俺にもわからない」 そう呟いて、雲に隠れた満月を見上げた。 ・・・・!? 何かが心の中で動いた。 そこにいるのか? 遥か彼方の月に何かが見えた気がした。 記憶が蘇ってくるような。 「ねえ実咲、俺たちってどうやって知り合ったんだ?」 「ごめん俺ちょっと記憶喪失気味で」 前髪をかき分けて思い返す。 実咲との最後の記憶は三カ月ほど前の海辺で止まっている。 まだ夏の暑い日、トンビの声が響く空に向かって歌ったあの日。 もっと言えばその日で俺の人生の記憶は止まっている。 「そ・・そっか、あれは去年の冬だった、ちょうど今頃ね、雅人の声に惚れたんだ」 去年の冬 季節は秋から冬に移り変わろうとしていた。 街を歩く人の服装も変わり、いわゆる衣替えが始まった頃だった。 とある金曜日の夜、実咲はバイト帰りに街中を散歩していた。 東京の景色はここ最近で本当に変わってしまった。 お台場にはスカイマークタワーができ、その隣には緑に囲まれた自然との共存という目的で建てられた星の森美術館がライトアップされていた。 ふらっと立ち寄りたくなるロマンチックなライトアップ。 実咲はそんな東京が気に入っていた。 そのまま思うがままに無心で歩いていると、ちょっとした路地裏を見つけた。 好奇心なのかただの気まぐれなのか。 路地裏に入ってみると、そこは公園になっており、公園の柵の向こうには海が広がっていた。 夜の海はまさに‘暗黒‘で、ただ黒世界が広がっていた。 公園に足を踏み入れてみると、風と共に音色が耳に入った。 優しくて、悲しげで、その声は実咲の心の奥底にある遠い思い出に触れるような感覚だった。 ゆっくりと足を動かし、公園の周りを見渡していると、一人の男の人が、真っ黒な海に向かって歌っていた。 歌っているというよりかは、呟いているというか、独り言というか。 彼の言葉はうまく聞き取れなかったが、彼が作っている音色に実咲は言葉を失っていた。 もう少し近づいてみると、彼が大きな涙を溢していることに気がついた。 海の向こうには満月が浮かんでいた。 「その公園ってどこの?」 雅人は実咲の話を聞いて尋ねた。 「ちょうどスカイマークタワーの近くだ。明日にでも行く?もしかしたら何か思い出すかも」 実咲はお得意の子供らしい笑顔を見せ、雅人は安心した。
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