第四章 遠く離れて。

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第四章 遠く離れて。

「この辺は変わらないな」 今日は実咲と優菜と三人で、ライブ後のお祝いも兼ねて実咲と雅人が出会った場所に行くことになった。 スカイマークステーションにすいている時間など存在しない。 いつも、いつも人で埋め尽くされていた。 朝、サラリーマンの行進を逆走できる快感はニートの特権だった。 「雅人、あの時の歌はもう歌えないのか?」 実咲は雅人と出会った時のことを思い出しながら問いかけた。 「覚えてないんだ、それに俺は歌えないよ」 雅人が下を向いて自信なさげに言うと、 「雅人君いい声じゃん」 と優菜が笑って返した。 その日の午前中、スカイマークステーション付近はくまなく探し回ったものの、例の公園は見つからなかった。 いつの間にか彼らは星の森美術館に立ち寄っていた。 星の森美術館ー 館内の展示物は全て3Dになっており、美術館の中には別世界が広がっていた。 空飛ぶペガサス、ペルソナの可視化ビジュアル、空を自由自在に飛ぶクジラ。 彼ら三人もこの美術館を気に入っていた。 美術館を出た頃には既に日が沈んでいた。 「飲みに行こうぜ、今日は本当に楽しかった」 雅人は満足げに言った。 俺にはかなり長い間の記憶がない。 親もわからない。 どこで生まれたのかもわからない。 思い出そうとするとずっと寝ていたような感覚になる。 でも幸せなことがあると、‘報われた‘ような気持ちになる。 まるで過去に辛い経験をしたような。 「行こうぜ!優菜は大丈夫?」 実咲も笑顔でのってくれた。さらに優菜のことまで気を配るのはさすが紳士だ。 「当たり前でしょ」 と呟き、お決まりの居酒屋、‘‘海りょう‘‘へと走った。 羽織っていたコートは風になびき、後ろには笑い声が響いた。 この二人がいてよかったと心から思えた。 現状、二カ月に一回ほどの頻度であるライブの収入でなんとか食べていけた。 好きなことが仕事で好きな人たちといつもいれる。 何でも上手くいく人生なんていうのはそうそうない。 それだけに過去にどんな悲惨なことがあったのか、自分の消えた思い出が気になるなんてこともよくあった。 そしてなぜ自分は狼人間なのか。 もし過去にあった何かしらの財産を失ったていたとしても。 もし未来にあったはずの夢がなくなっていたとしても。 とにかくこの三人だけは失いたくなかった。 この三人で食べたり飲んだり歌ったりしていると心の底から安心できた。 ただここで一つ疑問が生まれる。 安心が普通だったのなら安心は感じれない。 過去に何があったのかはわからない。 でも確かなことは今現在、少なくとも実咲と出会った去年の冬頃以前の記憶の手がかりとなる物を一切所持していないことだ。 スマホの写真フォルダーも、デジカメで撮った写真も去年の冬で途切れている。 「本当に俺って何者なのかな」 わかる訳もないが二人に聞いてみた。ただの思いつきの一部だ。 「いい奴だよ、狼っていうか小さい犬みたい」 実咲が笑みを含めて言った。彼の言葉で何度救われたことか。 「狼人間な雅人君なんてロマンチックでしょ!元気出して」 お酒が入った優菜はいつもの大人しさが消える。 でもそんなとこもたまんなく好きだ。 店の中で何でもない雑談を交わしていると、静かに地面に落ちるような雨の音に気がづいた。 窓の隙間から入ってきた冷たい風が肌に触れると故郷に帰りたいと、どこにあるのかもわからに故郷が懐かしくなった。 「時雨だな、そろそろ帰る?」 実咲は窓に手を入れて冷えた雨を触った。この時期は季節を無意識に感じることが多い。 風情とは非常に不思議なもので、風情を感じた体の部位だけが昔に戻ることが出来る。 居酒屋を出た頃には雨は止みかけており、傘がなくても歩けるような状態だった。 明日は特に予定もなく休みの日だったが、遊び疲れた三人は帰ることにした。 雅人と優菜はここから二駅、実咲は三駅先まで電車に乗る。 居酒屋から駅までは少し歩く必要がある。 お酒も入り、さらにこの三人だと何をしていても幸せだ。 駅までの道にあるスカイマークステーションをなんとなく眺めていると、空から列車が降りてくるのが見えた。 何かを思い出した。 また涙が出てきた。
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