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10歳の夏休み
海と千波は毎年のように10歳の夏休みにもおじいちゃんちに遊びに行った。
もう、おじいちゃんは亡くなって、今はおばあちゃんしかしないから、ほんとうはおばあちゃんちなんだけど、ずっとおじいちゃんちと言っていたので今更言い換えるのも変だと思ってずっとおじいちゃんちと言っている。
海も千波も毎年この家に来るので、おばあちゃんに千波を拾った場所を聞き出して、夕ご飯の貝を獲ってくると言っては、二人でよく千波が赤ん坊の時にいたという岩場に行っていた。
ある日、おばあちゃんが、
「そろそろこれ、千波に返しておこうかねぇ。私もいつまでも元気ではないし。」
と、言って、小さな緑色のガラス玉みたいなものを千波に渡した。
「それはね、千波を拾った時に小さな手の中にしっかりと握っていた物なんだよ。」
海と千波は一緒にそのガラス玉みたいなものを覗く。海はとても驚いた。
だって、その玉の中には千波の瞳の奥に見える打ち寄せる波、その先に広がる大海原。そして、その玉からは波の打ち寄せる音までする。
千波もとても驚いていた。
海は思った。だって、千波の瞳は自分では見られないから。こんな風にガラス玉に不思議な光景が移るなんてそりゃ驚くだろう。
でも、千波が驚いたのはそれ以上の事だった。
「僕、僕の家。僕の住んでいた所。僕のお父さんとお母さんがいるところ。」
千波は急にそんなことを言い始めた。僕は慌てて千波に言った。
「千波、海に人は住めないよ。溺れてしまうよ。」
おばあちゃんは、驚きながらも少し悲しい顔になって言った。
「あぁ、やっぱり千波は海の子だったのか。きっとあの日は少し波が荒かったから、お母さんの手から離れてしまったのかもしれないね。あのまま岩の上に置いていたら、波がちゃんと千波を海に戻してくれたかもしれないのに。私は余計なことをしてしまったのかもしれない。」
おばあちゃんは、ハラハラと涙を流しながら千波に言った。
「おばあちゃん、そんなこと言わないで。僕、おばあちゃんが拾ってくれなかったらそのまま死んでいたかもしれないんだよ。」
千波はそう言って、おばあちゃんの背中を優しくなでた。
その日は少し黙りがちになってしまったおばあちゃんと、それでも、いつものようにスイカを切ってもらったりして、過ごした。その日はなんとなくいつもの岩場にはいかなかった。
翌日、早朝に朝のお味噌汁に入れる貝を獲りに行く。と、海と千波はあの岩場に行った。
千波は昨日おばあちゃんから返してもらったあの不思議な、綺麗なガラス玉を持って行った。
岩場について、貝を獲ろうとしたその時、まるで二人を包み込むような大きな波が急に海からせりあがって、岩場から二人はさらわれてしまった。
でも、不思議なことに海に引き込まれてはいない。
海の上で、波の中で、二人は別々の泡の中に入って浮かんでいた。
その時、海の底から千波に向かって何かがすごい勢いで上がって来た。
透明な海の色をした泡のような水のようなものが、千波の泡を包み込んだ。
海には言葉は聞こえない。でも、感情が流れ込んでくる。女性の様だ。
『あぁ、私の子。あの日、手からさらわれてしまった私の子。こんなに大きくなって。ようやく見つけられた。その目印の海の泡を持っていてくれたから。』
千波を見ると、泣いている。あの女性の言葉が分かるのだろうか。
すると、今度は男性の感情が流れ込んでくる。
『そこの人間の子どもよ。我が息子をこれまで育ててくれてありがとう。だが、もうこの子も10歳。今海に戻らなければこの先一生陸で暮らすことになるだろう。身体が子供のうちに海に帰らなければ戻れなくなってしまうのだ。どうか、今、この時、この子を返してはもらえないだろうか。』
千波は驚いて、その男性に何か言っている。
海は驚いたが、千波の話している言葉が分からない。
男性は続ける。
『千波と名付けてくれたのだね。君のお父さん、お母さんにもとても感謝しているよ。おばあちゃんにもね。でも、今日が帰る時なのだ。千波という名前はこのまま貰って帰る事にしよう。君たちの記憶は申し訳ないが消させてもらうよ。千波の目の奥の海も、この海の泡の見せた海も本当なら人間には秘密の者なんだ。』
千波がまた男性に何かを言った。
男性は少しだけと、ジェスチャーで千波に示した。
千波の入った泡が海の入った泡に近づいてきて、くっついた。
千波は海にギュッとしがみついて、
「あぁ、こんなことになるなんて。でも、僕、帰りたくてたまらないんだ。この水の中にいる感覚が僕の世界なんだってわかるんだ。あそこにいるのが僕のお父さんとお母さんだ。育ててくれた海のお父さんとお母さんの事も大好きだよ。でも、海の記憶も、お父さんの記憶も、お母さんの記憶も、おばあちゃんの記憶もみんな消してしまうんだって。僕は最初からいなかったみたいにみんなの前から消えてしまうよ。でも、僕は忘れないから。海の底でずっと覚えているから。夏が終わって海が家に帰ってもずっと覚えているから。」
そう言い終わると同時に、海と千波の泡はまた離された。そうして、海は高いところで浮いていた波にそっと岩場まで運ばれ、下ろされた。
その波から出た瞬間に海は自分が何故この岩場にいるのか分からずに、ぼんやりと立ち尽くした。
そして、朝ごはんの貝を獲りに来たのだったと思い出し、貝を獲ってお祖父ちゃんちに帰った。
「ただいま。」
「遅かったね。波に流されたかと心配していたよ。」
「おばあちゃんの貝のお味噌汁美味しいんだよな。今日で家に帰らなきゃいけないなんて、つまんないな。」
「学校が始まるからしかたないねぇ。夏の終わりはいつもおばあちゃんも寂しいんだよ。海が帰ってしまうからねぇ。」
そうして、この夏は終わりを告げ、海は日常に戻っていった。
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