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通い慣れた浜辺も、昼と夜とでは随分印象が違う。青という色が認識できなくなるだけで、海と空の存在感は驚くほど希薄になる。
風もなく、波の音の他には何も聞こえなかった。嵐の前の静けさとはこの事かもしれない。
「ぼく、本物の海を見たのはじめてだ」
そう言った大輝の横顔は見たこともないワクワクに満ちていた。
「よし、じゃあ始めるか!」
俺はコンビニのレジ袋から、手持ち花火の袋を取り出した。民宿から拝借したバケツに海水をくんで、蝋燭に火を灯す。
「じゃあ、ぼくこれからやる!」
大輝が一番派手そうな花火を手に取り、その先端に火をつける。パチパチと火花が咲いて、二人の顔が虹色に染まる。
「ああ、もう終わっちゃったー。ねえ、パパも一緒にやろうよ」
「ああ」
しばらくの間、そうやって二人で花火を楽しんだ。花火が残り少なくなる頃を見計らって、俺は大輝に語りかけた。
「なあ、大輝」
なに? と視線を落としたままの大輝が答える。
「今のパパが与えられる光はこれくらいだ。でもさ、信じてほしいんだ。この先なにがあっても、俺とママはお前にとっての光を見つけ続けるよ。だから……」
言葉に詰まる。回りくどい、と自分でも思った。
「いいたいのは、病気のことだよね?」
大輝が言った。
「大輝……」
驚いた俺を見て大輝は笑う。
「実はだいたいわかってるんだ。ぼくの病気がなおらないことも、これから自分がどうなるかも。それに、パパとママがぼくにゴメンねって思っていることも」
「それは……」
「なにも言わなくていいよ。でもね、これだけはわかってほしいんだ。ぼく、生まれてこれてよかったと思っているよ。パパとママの子供に生まれて、すごく幸せで、毎日が眩しいんだ。だからさ。これからもずっと、そばにいてね」
「当たり前だ……」
涙を堪えるのに必死だった。大丈夫だ、と俺は思った。俺たち家族は、きっと大丈夫だ。
「もう線香花火しか残ってないや」
寂しそうに言った大輝が、線香花火に火をつける。
その姿に目を細めながら、俺はショルダーバックからサマーライトを取り出した。
「こいつはもう、お役御免だな」
俺はサマーライトを砂の上に置いた。ガラス瓶の表面に、大輝の姿と線香花火の光が映り込んだ。すると、サマーライトに見たこともない変化が起こりはじめた。
「なんだ……?」
サマーライトが今までにない勢いで発泡していた。閃光のような眩い光が溢れるほどに瓶から弾け飛び、鮮烈なきらめきが辺りを照らす。光の勢いはどんどん強くなっていく。
「パパ、変わった花火だね」
「違う、花火じゃない!」
サマーライトに夏が充ちたんだ!
そうか、夏の光は日光だけではない。大輝が咲かせた線香花火の光で、サマーライトが完成したのだ。
やがてガラス玉がカランと落ちる音がして、サマーライトの発泡が終わった。
覗き込むと、瓶の中に青空があった。そうとしか形容できなかった。無色透明だった液体は澄み切った青に染められ、その中心に浮いたガラス玉が太陽のような輝きを放っていた。
「……これはサマーライトだ」
俺は言った。
「サマーライト?」
「飲んだ者が夏を味わえる、世にも不思議な飲み物だよ」
「それ、本物?」
「わからない」
俺は首を振る。
「だから、まずは俺が飲む」
俺は目を瞑り、サマーライトを呷った。強い炭酸が、きらきらと全身を駆け巡る。そして次の瞬間、目蓋の裏に強烈な光の気配を感じた。
瞳を開く。目の前には晴天の夏の青空と、見渡す限りの大海原があった。
頭上で一羽の海鳥が翻った。これは幻だろうか。それにしてはリアル過ぎる。潮風の匂いも、鮮やかな空の色彩も、その全てがとても偽物には思えない。
「――パパ!」
気がつくと大輝が隣りにいた。
「大輝、お前なんで」
「だってパパ、急に寝ちゃうし、パパだけずるいし」
「そんなことよりも、肌は――」
「平気、なぜか全然痛くないんだ!」
俺は胸を撫で下ろす。そうだ。誰しもに平等な夏の光を与えてくれる。これがサマーライトの力なんだ。
眩しいな、と大輝は言った。
「お日様って、こんなに暖かいんだね」
夏の光を浴びて、大輝が青空の下に立っている。それは、俺がずっと望んでいた光景だった。
「ねぇ、パパ。遊んできてもいい?」
「ああ」と俺は感極まりながら頷いた。
「好きなだけ、遊んでおいで」
「わーい! パパも行こう!」
駆け出した大輝の背中を俺は追いかけた。
この世界が夢でも虚構でもいい。だけど願わくば、大輝に一生分の夏を味わって欲しかった。思う存分に太陽の下を駆け抜けた記憶を、彼に与えたかった。
どれだけの時間が過ぎただろう。いつの間にか日が暮れ始めていた。遊び疲れた俺たちは、息を切らしながら砂の上に寝転んだ。
「あー、楽しかった! だけどそろそろ、終わっちゃうみたいだね」
大輝が言った。その言葉を合図に、あっという間に夜になった。満天の星空に花火が咲いた。それは、サマーライトに映した最後の光だった。
「空に咲く線香花火って、レアだね」
大輝が笑う。もうすぐサマーライトの効力が切れるのだろう。それは多分、この世界の終わりを意味する。
俺たちを包む夜の大気に、ひとつ、またひとつと気泡が生まれた。次々と増えていく気泡たちが、夜空のてっぺんに揺れる柔らかな灯りのもとに昇っていく。
気がつくと、俺たちもその群れの一部になっていた。まるでクラゲにでもなった気分だった。ふわりと浮いた透明な体が、どんどん空に運ばれていく。
「そろそろ帰ろう、ママのところに」
俺は言った。
「うん! ねぇ、パパ」
「なんだ?」
「ありがとう。たくさんの夏をくれて」
俺たちは手を繋ぐ。そしてそのまま漂うように、この季節の終わりへと泳いでいった。
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