たとえ母国が滅んでも〜神に寵愛されし乙女は神に背く〜

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この世界は、世界と人間のみならず全ての生き物を豊かにする精霊で満ちている。 豊穣をもたらし、生き物を癒し、豊かな自然を守る。それは、天からの恵みであり、神が世界を慈愛でもって祝福している証だとされていた。 私、ミモレヴィーテは物心つく頃には世界に存在するあまたの精霊達が見えていた。精霊達は友好的で、私の事を気にかけて時には励まし時には一緒に遊んでくれた。 だからこそ、唯一の家族である母親が早朝から夜中まで働いていた為に独りで過ごす時間が長くても我慢出来た。 一度だけ、幼かった私は母親に精霊達を精霊と知らぬまま「可愛いお友達がいる」と話した事があった。飴細工かステンドグラスのような繊細で美しい羽を持っていて、私の周りをふわふわと飛んでまとわりつき皆が笑顔をたたえて話しかけてくれる。妖精達は世界のあらゆる事を知っていて、天候や大地からの恵みについても詳しかった。 けれど母親は、精霊について二度と口にしてはならないと私をきつく戒めた。それは懇願のような戒めだった。母親は、どうしてか悲しみと苦悩で顔を歪ませていた。 私を愛してくれる家族は母親だけだ。私は母親を悲しませた自分の発言を悔やんだ。そして、精霊達との交流は秘密にして誰にも──二度と口にしないと誓った。 それから何年経っただろう? 「ミモレヴィーテ、雨がやんだら町の橋に行きましょうよ」 「橋に? そこに何かあるの?」 水の精霊が私の耳もとを飛び、じゃれつくように囁きかける。私は内職の手を休めて訊ねた。精霊が心なしか胸を張る。 「綺麗なものが見えるわ。虹よ。それもね、空に端っこから端っこまで掛かって鮮やかな七色なの」 「それは素敵だわ。虹だなんて滅多に見られないもの、ぜひ見たいわ。この雨はいつやむかしら?」 「あと一時間もしないで上がるのよ。ね、ミモレヴィーテ、こんな薄暗いお部屋で手仕事ばかりしていないで綺麗なものを見ましょうよ」 「そうね……ええ、一緒に行きましょう」 「やった!」 精霊がはしゃいだ声を上げて私の周りを飛び回る。それにつられてか、他の精霊達も私に集まってきた。可愛らしいパステルカラーの精霊達がいると、殺風景な家の中が一気に華やぐ。 「皆、一緒に見に行きましょうか。虹は綺麗だもの、皆の栄養になるわ」 「本当に、ミモレヴィーテ?」 「皆で遊びに行けるの?」 「ええ。──でも、外では私に話しかけたら駄目よ?」 普通の人には精霊達が見えない。人前で精霊達と会話などしたら、独り言を言い続ける不審者になってしまう。あの家の娘は、ついに気がふれたと後ろ指をさされたら大変だ。 「うん、約束!」 「良い子ね。内職のお金が入ったら、少しだけれどクッキーを買ってあげる。皆で食べましょうね」 「やった、クッキー! ミモレヴィーテ大好き!」 「私も皆が大好きよ」 微笑んで、手を休めていた内職を再開する。雨がやむまでに一段落つくだろう。 ──この時、私はまだ何も知らなかった。 精霊達の事が見えて、親しめる力が何を意味するのか。 幼かった頃から数年を経たといっても、まだ13歳の少女だ。自分の生きる小さな部屋と母親、そして暮らす下町。それが世界の全てだった。世間を知らない私は、学べる知識も機会もなかった。 だから、虹を見に行った時──あんな事になってしまったのだ。母親との約束を破って。 「ミモレヴィーテ、早く早く!」 精霊達に導かれながら橋のたもとに向かって歩いてゆく。下町は今日も賑やかだ。この下町がある領地は税が他所より軽く、住みやすいために、暮らしの安寧を求めて移住してくる民もいた。もっとも、手に職がなければ働けないので、移民にとってそう甘い土地ではないのだけれど。 しかし、それにしても人が多い。いつもならば、こんなにもお祭りのように人がごった返す事などないのに、なぜだろうか。 周りを見ると、皆が皆、何やら晴れやかに笑っている。至るところで交わされるお喋りも声が浮き立っていて楽しそうだ。私は気になって耳をすませた。 「……ありがたいねえ、こんな田舎にまで聖女様がお越し下さるだなんて」 「救済院で癒しを行なって下さるそうだよ、うちの旦那も頼めるかねえ」 「働きすぎで腰と膝を傷めたんだっけ。聖女様なら、きっと治して下さるよ」 「ああ、ありがたい。雨もやんだし、早くお姿を拝見したいもんだよ」 「まったくだねえ。女神様みたいにお美しいって話じゃないか。楽しみだね」 「……聖女様……?」 ぽつりと、ほんの小さな声で独りごちる。噂になら聞いた事がある。何でも、不思議な力を用いて病や傷を癒せるだけでなく、国を護る祈りは天候まで操れて格段の力を持っているとか。 そんなにも素晴らしいお方がお見えになるなんて、精霊に誘われて町に出てきて良かった。もしかしたら、馬車に乗っておられるお姿を少しでも拝めるかもしれない。聖女様というくらいなのだから、どれほど神々しく清らかな美貌のお方だろう。 ──そう思っていると、精霊達が急かすように私の背中を押してきた。物理的な力はかからないから押されても転ぶ事はないけれど、はっとして虹の事を思い出す。早く行かなければ、せっかくの虹も消えてしまう。 私は歩く速度を上げて噂話から離れた。 そうして橋のたもとに着くと、ちょうど鮮やかな虹が空に掛かっていた。雨上がりの青空に映えて、おとぎ話の世界みたいだ。下町の子ども達も集まり、口々に綺麗だと歓声を上げている。自然の美しいものを好む精霊達も嬉しそうだった。代わるがわる私に抱きつき、頬に祝福のようなくちづけをしてくれる。 ──お母さんとも一緒に見たかったな……。 ふと、働きづめの母親を思う。 母親は、お腹に私を宿して下町に住むようになったらしい。理由は分からない。けれど、貧しいながらも女手ひとつで私を育てられるくらい働けるのだから、移民に甘くない町でも暮らしを始められただけの力が母親の生家にはあったのかもしれない。 そんな事を考えながら虹を見上げていると、何かの先触れの声が聞こえてきた。声のする方を見やると、きらきらした立派な馬車が多くの従者を連れて近づいてくる。町の皆が声に従って道を開けていた。 白い馬車には汚れひとつなく、繋がれた馬も毛艶や体格から相当高価な馬だと一目で分かる。もしかしたら、この馬車に乗っているのは聖女様だろうか。だとすれば町の皆の反応も、馬車の素晴らしさも納得がいく。 私も馬車の進行を妨げない場所に立ち、夢のような馬車に見惚れる。──と、私に寄り添っていた精霊達のうちの光の精霊が不意に私から離れた。精霊は、あろう事か馬車の中に入っていった。 内心で焦っていると、すぐそこまで近づいてきた馬車が私の間近に止まり、従者の一人が仰々しく馬車の扉を開く。驚きのあまり固まっていると、純白のドレスを身にまとった女性が馬車から優雅に降りてきた。辺りは一斉にどよめいて、「聖女様だ!」と叫ぶ大人の声で、女性が本当に聖女様なのだと分かった。それに、見つめてみていると、まばゆい金色の粒が女性を包んでいるのが見て取れる。まさに女神様みたいだ。生身の人間とは思えない気高さに、私は呆然とした。 「──あなた、名は?」 「えっ……」 聖女様は真っ直ぐ私の目の前に歩んで来られて、迷いなくお声をかけてきた。馬車に入っていった光の精霊が嬉しそうに私のもとへ戻ってくる。なぜだろう、他の精霊達も気持ちを昂らせているのが気配で伝わる。 とにかく、疑問は後回しにして聖女様にお答えしなくては失礼極まりない。私は声を震わせながら「ミモレヴィーテと申します」とかろうじて返事をした。 聖女様は目を細めて私を見つめ、細められた目からは感情の色が分からない。読めないというより、瞳が瞼に隠れて見えないのだ。それが私を更に縮こまらせ、心臓を激しく脈動させた。 立っているのも難しい程の緊張感。周りの人々も、聖女様に驚き見入っている。 「そう、ミモレヴィーテ……可憐な名ね。覚えておくわ。あなたとは、またいつか会うでしょう──精霊の愛し子さん」 「──!」 雷に打たれたとしたら、きっとこのような衝撃なのだろうか。畏怖、恐怖、驚愕。言葉では言い尽くせない。聖女様の考えも想像がつかない。どうして、なぜ、何が起きているのか──頭は混乱しきっていた。 しかし、聖女様はご満足なさったらしい。「ではね、ミモレヴィーテ」と優しそうなお声で告げて身を翻し、美しい所作で馬車へと戻っていかれた。残された私は、立ち尽くすしか出来なかった。 ……聖女様には、精霊達が見えておいでなのか? ようやく、そう考える。 空に掛かっていた虹は、いつの間にか消えていた。空がやたらと青い。日射しは聖女様のように眩しい。人々は遠巻きに私を眺め、ひそひそと怪訝そうに話している。 それにいたたまれなくなった時、いつも親切にしてくれる近所のおばさんが、まろぶように走って来て私にしがみついた。息を切らせて、それでも張りのある声で悲鳴に近い声音で叫ぶ。 「──ミモレ、あんた大変だよ! あんたの母親が侯爵様の馬車に轢かれて……!」 「──お母さんが?!」 現実味を感じさせなかった時間から、一気に真っ暗な現実に引き戻される。あまりにも残酷に。 ……この時から、私の運命が回り始めた。神が回したぜんまいがキリキリと歯車を動かし、その仕掛けに立たされた私は運命を舞うしかなくなったのだ。くるくると、くるくると。
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