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「マリオン!」  イアリートは両耳を手で塞いで目を閉じ、唱えた。  聞こえない、この声はおれには聞こえない……。 「まったく、マロースも学長も、うるさくてしかたない」  そう口を尖らせて職員室へ現れたのは、サプフィール・アメリエフだった。  オフホワイトのジャケットと革パンツを身につけたその姿は女性と見紛うほど華奢で、美しいブロンドのロングヘアは日差しに煌めいている。本当に天使の輪を冠していると錯覚するほどの美貌だ。  サプフィールは両手にガラス製のティーセットを持っていた。ポットのなかにはハーブの葉が浮かんでいる。  事務員であるかれは自分のデスクがあるブースへは向かわず、カモミールの甘い香りを後に残しながら、イアリートのそばへ来た。  隣の席に勝手に腰を下ろすと、足を組み、髪をひとつに束ねて結ぶ。 「ねえ、行ったら?」 「マリオンを呼んでるんですよ」 「でも、いないし。マリオンが戻るまで、ずっと呼び続けるよ」 「じゃあサプさんが行ってください。おれ、学長には近づきたくないです」 「ぼくだっていやだよ。マリオンがいないときに学長の相手をするのはきみの役目でしょ」 「そんなのいつ決まったんです? おれ、ここに来たばかりですよ」 「ぼくとマリオンだって、まだ2年も経ってないよ」 「十分先輩じゃないですか……あれ、おふたりは同期だったんですか、知らなかった」 「ほぼ、ね。ぼくのほうが少し後にここへ来たから」 「へえ。マリオンが来るまではどうしてたんですかね、あれ」  イアリートは学長室の扉へ目をやった。  が、また「マリオン!」と叫ぶアルマーズの声がして、さっと視線をそらした。  サプフィールは涼しい顔でカップに紅茶を注ぎながら、 「マリオンの前にも助手はいたらしいけど、ひと月と続いた人はいなかったみたい」 「わかる気がします」 「学長、まだ35歳でしょ。あの若さで学長になるくらいだもの、まともな人間じゃないよ。高校も大学も飛び級で卒業したらしいし」 「大学って、まさか」 「そのまさか、カミニ大だよ。でもどういう経緯でここに来たかは謎なんだよね。大学在学中に前の学長、つまりいまの会長に自分の論文を売り込みに来たとか聞いたことあるけど」 「売り込み?」 「そう。この国の腐敗は、マラザフスカヤを改革することで96%改善できる、とかなんとか」 「どういうことですか?」 「ほら、ここの生徒って政治家の子息が多いでしょ。かれらが正しい教育を受ければ、愚かな政治家は減って、政府もまともに機能するってこと」 「それはつまり、これまでのマラザフスカヤ出身の政治家はみんな愚かだと、かれらを育てたトップに直接言った、てことですか。なんて無鉄砲な……」 「学長らしいじゃない。あくまで説のひとつだけどね」 「うわあ、なおさら近づきたくないな」 「ここに雇われてるってことは、きみも優秀な教師ということ。学長、無駄が大嫌いだから」 「いつクビを切られるか不安ですよ」 「マリオン!」またアルマーズ。 「ああ、うるさい。お願い、行ってちょうだい、学長はぼくが嫌いなんだよ」 「ど、どうして?」 「あの人が無駄の次に嫌いなもの、なんだと思う?」 「さあ」 「美人だよ、ぼくみたいな。わかったら、早く行って」 「マリオン!」またまたアルマーズ。 「ほら」  イアリートは顎でうながされ、渋々腰を上げた。  目を閉じたサプフィールは恍惚の表情を浮かべ、湯気とともに鼻をくすぐるカモミールの香りを吸い込んだ。
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