プロローグ

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 後部座席の男は、さっきから同じ詞を口ずさんでいた。声も表情も、どこか上の空だ。  カミニ市近郊の住宅街で拾ったこの男は、無表情で「中央銀行まで」と告げると、座席シートに深くもたれ、窓の外へ顔を向けた。車が発進して間もなく、どこか物悲しいメロディーに乗せて歌い出したのだった。  大柄な身体にフィットした仕立てのいい紺色のスーツを着ている。ピカピカに磨き上げられた革靴も上等品だ。ネクタイはせず、ワイシャツのボタンを外して首元はくつろげてある。首都に隣接するベッドタウンのなかでもごく庶民的な住人が暮らす土地には似つかわしくない風体だった。  男は窮屈そうにしていた長い足を組んだ。太い眉の下にすっと切り込みを入れたような細い目のなかで、ちらちらと光が動いていた。銀色の瞳が朝の日射しに輝いているのだ。 「……続きは、ないんですか」  バックミラーに映る男の様子をちらちらと見ていた運転手は、思い切って尋ねた。  少し間を置いて、男は運転手へ視線を向けた。  鏡のなかでばちりと目が合う。  運転手はさっと前を向き、ハンドルを握り直した。盗み見を咎められたような気がして冷や汗が出る。 「覚えていない」  男は不機嫌な様子もなく答えた。 「だれの歌ですか」 「こんなヘンテコな歌が世に出回っているわけがない」 「へえ、というと、自作?おれは好きですけどね。先が気になる」 「ふん、物好きだな」  男は窓の外へ視線を戻した。また、同じ詞を口ずさむ。
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