愛してください

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 昔から、妹が大嫌いだった。  こいつさえいなければ。こいつさえ産まれてこなければ。いつもそんなことを思っていた。  妹は、お父さんやお母さんの愛情を一身に受けていた。私の分の愛情なんて、なくなるくらいに。    参観日が重なったら、両親ともに妹の方に行った。  私の方が年上なのに、お年玉は同額だった。  習い事なんかも、妹の方が優先してやらせてもらえた。  私がすねると、決まって言われる言葉があった。 「お姉ちゃんなんだから」  耳元を飛び交う、羽虫のような言葉。 「お姉ちゃんなんだから」 「お姉ちゃんなんだから」 「お姉ちゃんなんだから」  ブンブンと、耳障りな音。  お父さんもお母さんも、妹の方が大事なんだ。私のことなんて、どうでもいいんだ。  両親にとって、私を「どうでもいいもの」にした妹。そんな妹が、大嫌いだった。  高校に入ってから、妹はバスケットボール部に入った。バスケットシューズもボールも、決して安くない。それでも両親は、当たり前のように妹に買い与えた。  妹を見ていると、苛立ちが募った。視界に入れていなくても、その存在だけで腹が立った。だから、何か弱みでも握って絶望させてやりたかった。  高校に入ってから、妹は、部活の練習で帰りが遅かった。彼女の部屋を家捜しする時間は十分にあった。  妹の日記を見つけた。部活の先輩のことが、たくさん書かれていた。○月○日、先輩が――。×月×日、先輩と――。▲月▲日、先輩から――。  妹がその先輩を好きなことは、一目瞭然だった。だから、思った。  奪ってやろう。妹の好きな人を。  私は、自分の容姿が好きではない。よく「美人」だの「可愛い」だのと言われるけど、この容姿のせいでストーキングされたり、変質者やチンピラに絡まれることもあった。世間で言われるほど、美人は得ではない。  でも、今回ばかりは自分の容姿に感謝した。妹の好きな人を奪える武器になる。  高校卒業と同時に就職することが決まっていた私は、勉強もする必要がない。時間は十分にあった。妹の学校まで足を運び、物陰から彼女の様子を探った。  妹と、たびたび一緒に帰る男子生徒がいた。妹の様子から、彼が「先輩」であることは明らかだった。  とはいえ、妹と彼は、いつも一緒にいるわけではない。  私は、彼がひとりでいるときに声を掛けた。あの子の姉です、と名乗って。妹がいつもお世話になってます。  妹の気持ちを、彼に伝えたりしない。当たり障りのない会話をした。妹に怒られるから私と会ってることは内緒で、と釘を刺した。  妹のことで相談があるなどと言って、度々彼との時間をつくった。彼が完全に部活を引退した後は、さらに時間を共有できた。  適度に距離が縮まった頃に、告白した。  何度も会って気付いたが、彼は、外見で人の優劣をつけるタイプではなかった。私と会っていたときも、特に「美人」だの「可愛い」だのといったキーワードを出すことはなかった。あくまで、後輩の姉として接していた。  だから彼は、私の告白に驚いたようだった。  驚きながら、彼は私を振った。そんなふうに見ていなかったから、と。  それでも私は諦めなかった。彼との時間を作って、何度も会って。彼の受験勉強の手伝いをして。  二度目の告白で、付き合うことができた。  彼を家に連れて行ったときの妹の様子は、滑稽だった。泣きそうな目をしているのに、無理矢理笑顔を浮かべていた。その様子に、心が踊った。驚くほどの爽快感があった。  私の本心も知らずに、彼は、私を大切にしてくれた。彼に惚れた妹の選球眼だけは、褒めてやりたかった。  高校を卒業した後、彼は大学に進学し、私は就職した。  就職した会社の、直属の上司。三十歳。その上司には、娘が二人いた。スマホのトップ画面は、娘達の写真に設定されていた。  娘達を平等に愛している父親。そんな(つら)を晒す上司を見ていると、なんだか苛ついた。  本当は、好きな順番があるんでしょ? どっちかは、いらない娘なんでしょ? もしくは、両方共いらなかったりして。  試すように、私は上司に色目を使った。気のある振りをして、上司に接近した。  でも、彼氏と別れたりはしない。せっかく妹から奪ったんだから。  上司は簡単に落ちた。すぐに私に夢中になった。あんなに、娘達を愛しているアピールをしていたのに。娘達との時間を捨てて、私と逢瀬を過ごした。  やっぱり、娘達を愛しているなんて嘘。ただ単に、娘達を愛している自分に酔っていただけ。上司の本質を知ると、この不倫が喜劇のように楽しくなった。  それでも、彼氏との関係は順調だった。私が就職、彼氏が進学してから、二年が過ぎ、三年が過ぎ。  彼氏の就職先が決まった頃に、プロポーズされた。 「俺が卒業して就職したら、結婚しよう」  真面目で真摯な人だ、と心から思う。誠実に私と付き合い続け、結婚も視野に入れていた。その証拠に、彼は、決して高くないアルバイト代を貯めて、私に婚約指輪をくれた。  私の心に、彼と付き合い始めた頃とは別の感情が生れてきた。それが何なのかは、よく分からなかった。ただ、この時期から、彼を連れて実家に行く頻度が減った。  妹を交えて会うよりも、二人きりでいたかった。  不倫相手の上司に、結婚することを伝えた。これからはW不倫になる。  私の結婚を聞いたとき、上司は青い顔をした。 「結婚しても、俺達の関係は続けるんだよな? 別れたりしないよな?」  娘達を愛しているという顔を見せながら、妻でも娘でもない女に縋る男。そんな上司が滑稽で、面白かった。だから、上司と別れるつもりなどなかった。  ただ、なぜかこの頃から、上司と会っているときに、滑稽さ以外の感情を抱くようになった。  結婚式は、身内だけで挙げた。予約や準備で時間がかかり、籍を入れてから一年ほど経っていた。  ウェディングドレスを着た私が、タキシードを着た彼と並んだ。見つめ合った。  その光景を見た妹は、泣いていた。それが感動の涙でないことは、分かっていた。  分かっていたけど、楽しいとも嬉しいとも思えなかった。妹よりも、目の前にいる彼を見ていたかった。  指輪を交換して、誓いの口付けをした。  何度もしたはずの、彼とのキス。自分の唇で、彼の唇を感じる。  幸せだ、と思った。今までの人生の中で、一番幸せ。妹が悲しむ姿を見るよりも、上司の滑稽な姿に笑うときよりも、はるかに幸せだった。 「あ、そうか」  このときになって、私はようやく理解した。  私は、彼が好きなんだ。いつの間にか、こんなに好きになっていたんだ。結婚式での、彼とのキス。その瞬間が、人生で一番幸せだと思えるほどに。  自分の幸せに気付いた瞬間、胸を締め付ける感覚に襲われた。恐怖にも似た感情だった。自分が、どうしようもなく醜い人間に思える感情。  すぐに気付いた。これは罪悪感だ。  私は、彼を裏切っているんだ。大好きな彼を。  彼と結婚する前から、妻子ある男と不倫をしている。上司に家族と過ごす時間をないがしろにさせ、楽しんでいる。  大好きな彼を裏切って。他人の家庭にヒビを入れて、楽しんで。  なんて薄汚い女!  自分を罵る言葉が、呪いのように溢れた。吐き気がした。  決意は、すぐに固まった。上司と別れよう。あんな男とは、もう唇も肌も合わせたくない。  別れを告げたとき、上司は取り乱した。別れたくない、と縋ってきた。  愛する家族がいるのに、不倫相手の女に夢中になる男。なんて醜悪な姿だろう。夫を裏切ってこんな男と付き合っていた自分は、なんて薄汚いんだろう。  もう、嫌悪感しかなかった。上司に対しても、自分に対しても。  別れ話がもつれた。上司は関係継続を望み、諦めなかった。私は、別れの一択だった。  話し合う声は、徐々にトーンが上がってきた。激高した上司は、両手を私に伸ばしてきた。  私の、首に。  中年とはいえ、上司は男だ。何の運動もしていない女である私が、対抗できるはずがない。  上司の指は私の首に食い込み、呼吸と血流を止めた。  涙を流す上司を捕らえていた、私の視界。そこに、七色の線のような光が飛び散った。視野は、少しずつ狭くなっていった。  目の前は、いつの間にか真っ暗になっていた。意識が薄れていった。 「別れるくらいなら――俺以外の奴のものになるくらいなら、殺してやる」  最後に聞こえたのは、上司の、そんな言葉だった。  ――そして、気が付くと、私はここにいた。自分の葬式の場。  私は宙に浮いていて、自分の遺影と死体を見ていた。  彼は――夫は、虚ろな目をしていた。涙を流すわけでもなく、取り乱すわけでもなく。魂が抜けたような顔をしていた。  絶望と失望に打ちひしがれる顔。  夫の顔を見て、私は悟った。私の死因から、夫は全て知ったのだと。私が、結婚前から上司と関係があったこと。ずっと、夫を裏切っていたこと。 『ごめんなさい!』  呼吸困難になりそうな、息苦しい感情。呼吸をする体もないのに、私は、強烈な窒息感に襲われていた。  夫に知られた。醜い私を。薄汚い私の裏切りを。それが、どうしようもなく苦しくて、悲しかった。 『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!』  私は、何度も謝罪の言葉を繰り返した。夫を愛している。夫も、私を愛してくれた。  夫の愛を失いたくない。たとえ両親に愛されなかったとしても、夫にだけは愛されたかった。夫は、人生で一番、私を幸せにしてくれた人だから。  妹が夫に近付いた。二人で、葬儀場の廊下に出た。 「先輩のこと、ずっと好きだったんです。高校のときからずっとです」  夫に、妹が告白した。高校のときから続いていた、妹の気持ち。 『嫌だ!』  もし生きていたなら、私は大粒の涙を流しただろう。髪を振り乱しながら懇願しただろう。 『私から夫を取らないで! あんたは、全部持ってるじゃない! お父さんからもお母さんからも、昔から大事にされてたじゃない! 夫だけは……その人だけは、私から取らないで!』  私の声は届かない。どんなに願っても、どんなに祈っても。いくら縋っても、届くことはない。 『お願いだから、その人だけは……』  夫はしばし呆然とした後に、妹をじっと見た。彼らしい、真摯で真剣な表情で。  私はもう、耐え切れなかった。抱える絶望の大きさが、私自身の許容量を超えていた。  夫の唇が動き出す前に、私はその場から逃げ出した。  これ以上、何も失いたくない。  命まで失った私には、もう、夫の愛しか残っていないから。
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