第八章 水中の切り札

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第八章 水中の切り札

 結局、怜音が心配していたことは何も起きなかった。真山は彼の家に飼い亀『ヘップバーン』を怜音たちが見に行くことをこころよく受け入れてくれた。 真山と話していたグループの生徒たちは、亀の話題が出たとたんに興味を失い「終わったら教えて」と自分たちのおしゃべりに戻ってしまった。教室の空気も同じだ。彼女はあっという間に注目の的から外れ、休み時間の騒がしさが戻ってきた。怜音の周りの世界はひょうし抜けするほど何も変わらなかった。 「まあ、結果オーライなんじゃない?」  どっと疲れた怜音の肩を叩いて、実里は言った。  その日の放課後、怜音たち3人は真山の家に来ていた。大きめな和風の家で、広めの縁側が庭に面している。庭の真ん中には小さいながらも池があり、岸には1匹のミドリガメがひなたぼっこをしていた。 「これが……『ヘップバーン』か」  今田はその脇に座りこみ、スケッチブックを開いた。縁側に座る怜音たちからその表情は見えなかったが、鉛筆を走らせる音からはウキウキしているのが伝わってきた。 「『彼女』がウチに来たのは、まだじいちゃんが若い時だったみたいだからな。その頃人気だった女優の名前らしいぞ」  3人分のコーラのグラスを怜音の横に置きながら、真山が言った。グラスの中にはブロックになった氷がいくつか浮いていて、ストローもちゃんと差してある。 「ありがとう」とお礼を言う怜音に真山は「そんなことよりさ……」と返す。 「今までウチに遊びに来たやつはいっぱいいたけど『ヘップバーン』を見たがったのはお前らが初めてだったんだ。池内と同じで生き物とか好きなのか?」 「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと事情が複雑なんだ」  怜音は、ここまで何があったのかをかいつまんで話す。真山は「なるほどな」と言いつつ、少し納得行かなさそうな顔だった。こんな手の込んだことをせず本当のことを話せばいいのに、と言いたげな顔だった。きっと、彼はそれでも相手とすぐに仲直りして、心からはげますことができるような人間なんだろう。 「まあ、よくわかんないけど……友だちのためにやってるんだろ? いいやつだな、お前ら」  ニカっとした顔で笑う真山の言葉に、怜音は少し引っかかった。アキラくんはわたしの友だちなんだろうか? それに、この撮影は本当にアキラくんのためのものなんだろうか? ほとんど話したことのない相手にもあっさりとペットの亀を見せてくれる、そんな真山くんの親切と同じ種類のものなんだろうか? わたしは、もっと……。 「そろそろいいかな、亀井さん?」  ぐるぐるとした怜音の考えを断ち切ったのは、徳紗の声だった。
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