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今日は観劇へ出かける。
・・・昨夜は帰りの馬車で何も言えなかった。
何か言いたいのに。何か聞こうと思うのに。
何を言えばいいのか、わからなくて。
家へ帰ってからもあれこれと考えて眠れなくて。
すっかり寝坊してしまった私に。
「今夜は、デートですからね」
にまにましたお母さまが。侍女と一緒に持ってきてくださったのは、萌黄色のドレスだった。
「間に合って良かったわ。刺繍を増やしてもらったの」
昨日と同じ刺繡が裾に。それから斜めに上ってくるように胸元まで施されていた。
「彼が、あなたを抱きしめているみたいでしょう?」
と仰るから、返事ができなくて困ってしまったわ。
侍女たちまで「デートですから」を合言葉に。
いつもより手の込んだハーフアップにして。いつもより念入りに、でも薄化粧を施して。いつもと違う香水をつけてくれた。
いつもより女らしさがアップしていると褒めてくれたけれど。本当かしら。
階下へ急ぐと、やはり早く来てくれた彼が。玄関を案内されてくるところだった。
っ。
階段の途中で、またも立ち止まってしまう。
彼の服は・・・撫子色で。
男性の服で見かける色じゃないというのに・・・。
少し落ち着いた色味がとても似あっている。すっきりと着こなしている。
刺繡がひとつもない服は・・・余計に私の名の色を目立たせて。
私のほうこそ、彼を独占しているような気がした。
どうして。
どうして彼は平気な顔でこの服が着れるのかしら。
・・・いいえ、馬鹿ね。
彼は何も感じていないから、平気なのよ。
・
新しくできたばかりの劇場は、いつも家族で行く劇場ではなくて。
明かりがたくさんに灯されて、装飾もたくさんに施された建物。
まぁ、皇宮で見たあの魔法だわ。建物を水のように青い光が流れていく。
”あちらの劇場のほうが、民衆受けする劇を上演しているのよ”
そう花梨様が仰っていたわ。今、ロングランで上演されているのは、せつないけれどハッピーエンドな恋物語だそう。
お父様は、席が取れたのは今日だけだった。と仰っていた。
いつもの劇場のほうだったなら、年間でロイヤルボックスをひと部屋、貸し切ってあるもの。
わざわざこの劇を。と思われた理由は、私達の関係を心配してなのかしらね。
支配人自らが案内をしてくれた席は、ボックス席。舞台が見下ろせる。
部屋には、大きなソファがひとつしか無い。
・・・お父様の指示かしら。通常はもっと椅子が置いてあるものよね?
私をエスコートして座らせて。
・・・少し離れて、同じソファの端に座った彼は。
後ろに控えていた侍従に声をかけた。
「すまないが、呼ぶまでふたりにしてもらえるか?」
飲み物の用意や、他の用事に応えるため、ボックス席には専用の侍従がいる。
侍従は、すっと一礼して部屋を出て行った。
それを見届けると彼は。
「申し訳ありませんが、少しお近くによってもよろしいですか」と聞いてきた。
言われた意味が分からなくて・・・。
視線が合うと彼は。
「絶対にそちらを見ないでほしいのですが。
向かい側のボックス席に、あの男が居るのです」
彼が”あの男”だなんて失礼な言い方をするのは・・・「水仙様?」のこと?
「そうですが。名を呼ぶ必要はないかと」
冷たい口調とともに彼は私にぴたりとくっついて座りなおし、私の肩のところ、ソファの背もたれへ手を伸ばす。
顔だけを私から背けて「少し見せつけたら、舞台だけが見えるようにカーテンを半分閉めますから。それまでご辛抱ください」
・・・他家のお茶会などには一緒に行ったけれど。
こんな風にふたりで出かけるのは初めてで。
デート、とみんなから繰り返された言葉に。私は少し浮かれていたのかもしれない。
私は彼の肩のところへ、自分から身を寄せた。
ぴくり、と彼の肩が動く。
「す、水仙様にもう声をかけられないように。
た、ただそれだけの理由です」
少し震える声を彼はどう思ったのか。
「わかりました」
と返事をして・・・。
「すみませんが、ほんの少しお体に触れるのをお許しください」
耳元で囁かれる低い声に。首筋が粟立つような感覚がする。
肩に。彼の手が触れて。
ほんの少し引き寄せられて。
肩が、彼の掌が温かい。ウッディな香りがする。硬い・・・厚い胸板を感じる。こんなにがっしりした方だった?
もっと・・・。
私はつい、彼の胸に手を充てる。
トクトクと早い鼓動は私のもの?
あなたのもの?
見上げた彼の顔はすごく近くにあった。
ぐいっと体を入れ替えられて。
まるで椅子の背と彼に。逃げ道を塞がれたようだわ。
彼は、息がかかる距離まで顔を近づける。その瞳は片方へ寄せられて。
何かを窺っている?
「私の後ろが見えますか?真正面のボックスです」
婚約者の肩と髪の隙間から、こっそりと見ると。
確かに向かいに水仙様。深紅のドレスを着た胸の大きな女性を抱きしめて。
驚愕の表情でこっちを見ている。
「・・・見えます。こちらを見てびっくりしていますわ」
「作戦はうまくいったようですね」
珍しく、いたずらが成功した子どものような浮かれた声。
ふふっと笑ってまた彼を見上げる。
彼もまた、私のほうを見おろし。
そして固まった。
いったいどうしたのかしら。息のかかる距離にいるまま。
じっと私を見てる。
・・・とうとう彼は、手にぎゅっと力を入れて・・・。
私に近づく・・・。本当に。口付けをする気なの?
怖い・・?
私はぎゅっと目を閉じた。
だけど。
いつまでも何もないまま。
・・・そっと体を離した婚約者は。
「申し訳ございません」と呟いた。
嫌い。あなたなんか大嫌い!
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