撫子 (15歳と4か月)

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今日は観劇へ出かける。 ・・・昨夜は帰りの馬車で何も言えなかった。 何か言いたいのに。何か聞こうと思うのに。 何を言えばいいのか、わからなくて。 家へ帰ってからもあれこれと考えて眠れなくて。 すっかり寝坊してしまった私に。 「今夜は、デートですからね」 にまにましたお母さまが。侍女と一緒に持ってきてくださったのは、萌黄色のドレスだった。 「間に合って良かったわ。刺繍を増やしてもらったの」 昨日と同じ刺繡が裾に。それから斜めに上ってくるように胸元まで施されていた。 「彼が、あなたを抱きしめているみたいでしょう?」 と仰るから、返事ができなくて困ってしまったわ。 侍女たちまで「デートですから」を合言葉に。 いつもより手の込んだハーフアップにして。いつもより念入りに、でも薄化粧を施して。いつもと違う香水をつけてくれた。 いつもより女らしさがアップしていると褒めてくれたけれど。本当かしら。 階下へ急ぐと、やはり早く来てくれた彼が。玄関を案内されてくるところだった。 っ。 階段の途中で、またも立ち止まってしまう。 彼の服は・・・撫子色で。 男性の服で見かける色じゃないというのに・・・。 少し落ち着いた色味がとても似あっている。すっきりと着こなしている。 刺繡がひとつもない服は・・・余計に私の名の色を目立たせて。 私のほうこそ、彼を独占しているような気がした。 どうして。 どうして彼は平気な顔でこの服が着れるのかしら。 ・・・いいえ、馬鹿ね。 彼は何も感じていないから、平気なのよ。   ・ 新しくできたばかりの劇場は、いつも家族で行く劇場ではなくて。 明かりがたくさんに灯されて、装飾もたくさんに施された建物。 まぁ、皇宮で見たあの魔法だわ。建物を水のように青い光が流れていく。 ”あちらの劇場のほうが、民衆受けする劇を上演しているのよ” そう花梨様が仰っていたわ。今、ロングランで上演されているのは、せつないけれどハッピーエンドな恋物語だそう。 お父様は、席が取れたのは今日だけだった。と仰っていた。 いつもの劇場のほうだったなら、年間でロイヤルボックスをひと部屋、貸し切ってあるもの。 わざわざこの劇を。と思われた理由は、私達の関係を心配してなのかしらね。 支配人自らが案内をしてくれた席は、ボックス席。舞台が見下ろせる。 部屋には、大きなソファがひとつしか無い。 ・・・お父様の指示かしら。通常はもっと椅子が置いてあるものよね? 私をエスコートして座らせて。 ・・・少し離れて、同じソファの端に座った彼は。 後ろに控えていた侍従に声をかけた。 「すまないが、呼ぶまでふたりにしてもらえるか?」 飲み物の用意や、他の用事に応えるため、ボックス席には専用の侍従がいる。 侍従は、すっと一礼して部屋を出て行った。 それを見届けると彼は。 「申し訳ありませんが、少しお近くによってもよろしいですか」と聞いてきた。 言われた意味が分からなくて・・・。 視線が合うと彼は。 「絶対にそちらを見ないでほしいのですが。 向かい側のボックス席に、あの男が居るのです」 彼が”あの男”だなんて失礼な言い方をするのは・・・「水仙様?」のこと? 「そうですが。名を呼ぶ必要はないかと」 冷たい口調とともに彼は私にぴたりとくっついて座りなおし、私の肩のところ、ソファの背もたれへ手を伸ばす。 顔だけを私から背けて「少し見せつけたら、舞台だけが見えるようにカーテンを半分閉めますから。それまでご辛抱ください」 ・・・他家のお茶会などには一緒に行ったけれど。 こんな風にふたりで出かけるのは初めてで。 デート、とみんなから繰り返された言葉に。私は少し浮かれていたのかもしれない。 私は彼の肩のところへ、自分から身を寄せた。 ぴくり、と彼の肩が動く。 「す、水仙様にもう声をかけられないように。 た、ただそれだけの理由です」 少し震える声を彼はどう思ったのか。 「わかりました」 と返事をして・・・。 「すみませんが、ほんの少しお体に触れるのをお許しください」 耳元で囁かれる低い声に。首筋が粟立つような感覚がする。 肩に。彼の手が触れて。 ほんの少し引き寄せられて。 肩が、彼の掌が温かい。ウッディな香りがする。硬い・・・厚い胸板を感じる。こんなにがっしりした方だった? もっと・・・。 私はつい、彼の胸に手を充てる。 トクトクと早い鼓動は私のもの? あなたのもの? 見上げた彼の顔はすごく近くにあった。 ぐいっと体を入れ替えられて。 まるで椅子の背と彼に。逃げ道を塞がれたようだわ。 彼は、息がかかる距離まで顔を近づける。その瞳は片方へ寄せられて。 何かを窺っている? 「私の後ろが見えますか?真正面のボックスです」 婚約者の肩と髪の隙間から、こっそりと見ると。 確かに向かいに水仙様。深紅のドレスを着た胸の大きな女性を抱きしめて。 驚愕の表情でこっちを見ている。 「・・・見えます。こちらを見てびっくりしていますわ」 「作戦はうまくいったようですね」 珍しく、いたずらが成功した子どものような浮かれた声。 ふふっと笑ってまた彼を見上げる。 彼もまた、私のほうを見おろし。 そして固まった。 いったいどうしたのかしら。息のかかる距離にいるまま。 じっと私を見てる。 ・・・とうとう彼は、手にぎゅっと力を入れて・・・。 私に近づく・・・。本当に。口付けをする気なの? 怖い・・? 私はぎゅっと目を閉じた。 だけど。 いつまでも何もないまま。 ・・・そっと体を離した婚約者は。 「申し訳ございません」と呟いた。 嫌い。あなたなんか大嫌い!
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