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「本日は楽しい時間をありがとうございました」
時間通りに。彼女の前を辞す。
侍従が先導してくれて。
車どまりへ着いたけれど、馬車がいない。
「すぐに連絡いたします」と侍従は去っていった。
通常なら、ここへ歩いてくる間に連絡を済ませておくものだろう。
嗤いたくなる。
もう、使用人にも顔合わせが失敗だと浸透したんだろうな。
敬意を払うべき相手ではないと侮られたんだろう。
何時間待たされようと表情ひとつ変えるものか。
僕は意固地になっていた。
カタ、と後ろで扉のあく音がしても。振り向きはしなかった。
「・・・もうお帰りか。
今日はわざわざ来てくれてありがとう」
は?
これは・・・さっき、聞いた声だ。
やっと振り向いて確認すると。
邸から出てきたのは、確かに公爵閣下で。
「待たせて申し訳ないね。
撫子にはわからぬように、話がしたかったものだから」
にこりと微笑んでおられた。
「会ったこともない人間と結婚する。そんな歴史があったことは知っているかい?
今では考えられないよね。
政略の場合でも、きちんと婚約期間を設けるし。
あまりにふたりの相性が悪ければ、解消させるのも簡単になったから」
立ち話のまま閣下は。そんな言葉から初めて。
「我が家には撫子ひとりしか、子が居ない。
妻に2人目の子どもが望めないと判った時。
私は、撫子に我が家を継いでもらおうと決めた。
だからこそ。
あの子の伴侶には最高の男を用意するのだとずっと思ってきた」
どうしてこんな話をなさるのか。
噛ませ犬に対する優しさなのか?
「撫子を大切にしてくれる男。ただ愛してくれる男」
呟くように言う声は心配にあふれてて。
「撫子様にお会いして、心動かされない男がいるとは思えません」
フォローするような言葉を伝えてしまった。
「・・・君もそうだと思っていいのかな?」
揶揄うような声に。つられはしなかったと思う。
僕はただアルカイックスマイルを返すことでその質問に答えた。
・ ・
大変な一日だった。
湯あみも済ませて、自室に戻った僕は。
やっと本音を口にする。
「彼女と話せたことを。僕は一生自慢するかもしれない」
ちらっと僕を見て。珊瑚はにんまりと笑った。
「その割には、帰ってきてから静かだったわね」
まったく。珊瑚には何でもお見通しで嫌になる。
心配していた父上はどうだった?とうるさくて。
揶揄うような兄上もどうだった?と聞いてきて。
芹と弟は何にも聞かないのに。視線がどうだったの?と、言っていた。
僕は「別に」と言ったきり。普通にしていられたと思う。
だって。
素敵な方だった、なんて言えるわけがないじゃないか。
二度と会うこともない人だ。
お断りなさることはわかりきっているのに。彼女に見とれてしまった、だなんて言いたくない。
もしかしたらと期待していると思われたくない。
「・・・僕は結構見栄っ張りだったよ」
自嘲しながら告白したのに。
珊瑚はソファで伸びをして。
「知ってるわよ」と笑った。
僕自身が今自覚したのに?
珊瑚にはかなわない。
・・・僕は撫子様とお茶の時間を過ごせたことを喜んでる。
初めて。自分が普通の容姿でよかったと思ってる。
だからこその、公爵閣下の選択だったんだろうから。
彼女と会うための条件だったんだろうから。
「そうかもしれないし。そうじゃないかもしれない」
「何が?」
珊瑚はとても頭がいい。時々なぞかけのようなことを言い出す。
僕は隣へ腰かけて。彼女の頭を撫でた。
「いいえ。教えてあげないわ。遅くとも数日後にはわかるもの」
彼女はまた、うーん。と伸びをして。
「もう眠るわ」
僕のそばから離れていった。
・ ・ ・
「一位様!!」
執事が慌てて僕の部屋へ入ってきたのは、翌日の午後で。
盆の上には真白な封筒。
僕宛てだ。
公爵閣下からの、婚約の打診を断るお手紙だろう。
一緒に載っているペーパーナイフで、さっさと開ける。
通常なら、大人とはみなされていない僕がしていい行動ではないけれど。
この件に関しては、僕宛てのものは先に見てもいいと許可を得ていた。
父上は今日は終日、家に居ないし。
お返事が遅れて、公爵閣下のお叱りを受けては大変だから。
だけど。開いた封筒からは・・・爽やかな香りが。昨日の彼女の香りがして。
は?!
閣下からの手紙に香水???
僕は封筒を裏返す。
・・・差出人は・・・撫子様?
なんで??
真白な封筒に。香りのする便せん。
流麗な文字に。言葉遊びのような高尚な文章。
・・・そこに書いてあったことを要約すると。
「あなたが一緒なら、森を見てもいいと言われました。
いつなら、我が家に来てくださる?」
は?
・
父上は公爵閣下と帰ってこられた。
「昨日はありがとう。
撫子からの手紙のほうが、先についたのではないかな?
いやぁ。皇城で伯爵と話がはずんでね。
婚約の話を詰めようと、一緒についてきてしまったよ。
早速書類をまとめて、明日には提出しておくから。
明後日には、我が家へまた来てくれると助かる。
撫子は森へ行くのだともう大はしゃぎでね」
・・・はぁ、と曖昧に答え。僕は父上を見る。
にこにこした父上はもうすっかり公爵閣下に心酔してる。
言われるとおりにサインをして・・・。
本気か?父上?
・・・きっと明日には、我に返って真っ青になるんだろうな。
「あぁ、これでやっと安心できる。
撫子を守ってもらえる」
守る?
閣下のほっとした言い方。
彼女を守る。
そうかこの方が僕を選んだ理由はそれか。なぜ知っているのだ?
知っているのは叔父上だけだったはず。
そのまま、婚約の書類を3人で確認することになって。
解消の条件が、良すぎることに驚いていたが・・・。
そうか。
閣下はいくつもの縁談から彼女を守りたくて。僕をその盾にとお考えなのか。
邸の中でさえ、見え隠れする護衛の数は普通じゃなかった。物理的にも、僕は盾になれるだろう。
それで、婚約解消に伴う条件がここまで僕に有利なのか。
彼女が本当に婚約者を見つけるまでそばに居ればいいのだ。
解消を前提とした婚約だ。
彼女が、本当の結婚相手を見つけるまで、彼女を守る。
それを閣下がお望みなら。我が伯爵家に利するのなら。
僕に否やはない。
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