第十二章【転べば痛い】凪砂

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第十二章【転べば痛い】凪砂

――私のようになってはいけない ――それだけは、絶対に阻止せねばならぬ  朔馬が抜刀すると、目の前が光に包まれた。  瞬間、時右衛門の記憶が僕たちを通り抜けていった。  そして時右衛門には、長らく待ち望んだ瞬間が訪れたらしかった。 ◆  翌日、理玄から連絡があった。  時右衛門の掛け軸のある部屋で眠ると、泊まった者は寝違えたり、妙な体験をするという噂が地元にはあったらしい。  さらには「子ども」という声を聞いた者が何人かいたので、その掛け軸には僕たちが聞いた異名がついたらしかった。  しかしそれもずっと昔の話で、現在ではその名前と噂だけが残っていたようだった。  それから朔馬は、昨日の出来事を理玄に報告した。 「そういえば和樹と会った時、スケッチブックを持ってたな。そこに時右衛門が憑いていたわけか」  考えてみれば時右衛門が和樹の絵に憑いている時に出くわしたのは、理玄だけであった。  さらには時右衛門は長くお寺にいたらしいので、読経やそういう類には効果がなかったのもうなずける話であった。 ◇  その日の午後、和樹から連絡があった。  公園でキャッチボールをしないかと、そう誘ってくれた。そこには、よければ朔馬も一緒にとあった。 「時右衛門の記憶に触れた時、和樹がみた予知夢にも触れたんだ。だからなんていうか、今回は凪砂一人の方がいい気がする。誘ってくれてありがとう」  朔馬はそういって、今回は和樹の誘いを辞退した。  公園にやって来た和樹の腕には、ところどころに絆創膏が貼られていた。そして右手の小指には、包帯が巻かれていた。 「ケガ、大丈夫?」 「うん、軽い突き指だって。病院にいったけど、全然平気。だからキャッチボールもできるよ。軽くだけど」  僕たちは、近い距離でキャッチボールを始めた。 「昨日、時右衛門たちがキャッチボールをしてたから、僕もやりたくなったんだ」  和樹はいった。  たしかに時右衛門と枕返しは毬で遊んでいた。 「楽しそうだったね」  僕がいうと、和樹は「うん」と笑った。  なんとなく憑き物が落ちたような、そんな顔だった。 「ケガの話に戻るんだけどさ。病院には、朝いったの?」 「うん、朝。お母さんが連れてってくれた」 「お母さんとは、話せた?」 「うん、謝ってくれた。もしかしたら、お兄ちゃんになにかいわれたのかも知れないけど。謝ってくれたから、もういいかなって思った」  和樹はそういって、こちらにボールを投げた。 「でも変なものを見ても、もうお母さんにはいわない。わかってもらえないと、やっぱり辛いから」 「そういう選択もあると思う」  悲しいことかも知れないが、僕はそれを肯定するような言葉を吐いた。  波浪(ななみ)は中学生の頃から妙なものを見ていた。  つまりは僕より数年前に、見鬼の才に目覚めていたわけである。しかし波浪はそれを、僕にはいわなかった。  中学生だったし、周りにそういうことをいう年齢でもなかったから。  なんて本人はいっていた。しかし僕は、それが少し寂しかった。  そうは思えど、当時の僕が、それをどう受け入れたのかはわからない。もしかしたら僕も、無意識に波浪を傷つけるような言葉を吐いていたかも知れない。  そう考えると、和樹の母を責めるような気持ちはわいてこなかった。 「俺でよければ、話くらいは聞くから」  僕はそういってボールを投げた。  ボールを受け取った和樹は「うん、ありがとう」といった。  それから僕たちはすぐにキャッチボールに飽きてしまい、公園のベンチへと移動した。 「久しぶりにキャッチボールしたな」  僕はジュースを口にしながらいった。  恥ずかしい話であるが、和樹が昨日のお礼にと奢ってくれたのだった。 「うん、僕も。すごく久しぶりだった。  和樹はそういって、小指に巻かれた包帯を見つめた。 「予知夢ではお兄ちゃんが小指をケガしてたんだ。これは、僕が時間を戻したいって思った罰なのかな」  和樹はぽつりといった。 「必ず誰かがケガをしなきゃいけない、なんてことはないと思う。娘を助けた時右衛門も、なんともなかったわけだし。きっと偶然だよ」  和樹は「うん」といって、再び自分の小指を見つめた。 「偶然だったとしてもケガをしたのが、僕でよかった」  和樹は強がりでもなんでもなく、本心でそういっているようだった。 「少しのケガでも、部活に影響が出たりするのかな」 「どうなんだろう。考えてなかったな」 ――野球で活躍するお兄ちゃんを見るのが好きだった  和樹とそんな会話をしたように思ったが、それはいつだったのか覚えていない。  もしかしたらそれは、和樹が見た予知夢の中の出来事かもしれなかった。  僕がよほど変な顔をしていたのか、和樹は不思議そうに口を開いた。 「凪砂くん、道路で転んだことある?」 「あるよ。最近はあんまりないけど」 「道路で転ぶと、すっごく痛いんだ。だから、お兄ちゃんが痛い思いをするのは嫌だったんだ」  和樹は照れくさそうに笑った。  その顔を見て、僕はなんだか気が抜けた。  転べば痛いし、否定されたら悲しくなる。  受け入れてもらえたら心地よくて、理解してくれたら嬉しくなる。  僕たちの日常は、きっとそういう単純な感情が重なってできている。  その中で傷ついたり、傷つけたりをくり返すうちに、いつの間にか分かり合えたり、やっぱり分かり合えなかったりするのだろう。  僕たちは結局、同じようなことをくり返すことでしか前に進めないのかも知れない。  僕たちの目の前には、昨日も見たような真っ白な入道雲が浮かんでいた。  きっと明日も、似たような空を見るのだろう。  そして、今日と同じような暑い日が続くのだろう。  そんなことを予感させるような青い午後が広がっている。 【 了 】
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