第一章【牛乳】和樹

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第一章【牛乳】和樹

 この海沿いの町では、あるはずのない島が時々見える。  その島はネノシマと呼ばれており、そこには妖怪や神様たちが多く住んでいるとされている。  ネノシマは、この土地で生まれ育った者にしか見えず、さらには大人になるにつれて見えなくなるといわれている。  小学四年生の和樹(かずき)は、今もネノシマが見えている。  兄の翔太朗(しょうたろう)は高校一年生であるが、ネノシマは今もたまに見えるといっている。しかし翔太朗のいう「たまに」とは、どれほどの頻度なのか和樹にはわからない。もしかしたら、ほとんど見えていないのではないかとも思っている。  和樹は幼い頃から現在に至るまで、敏感な子どもであるといわれることが多かった。それについては、少なからず自覚もある。  和樹はどうにも、他者には見えないものが見える体質らしかった。 「あれ、なんだろう」  和樹がそれを指しても、家族は「なにかいる?」と目を凝らすばかりであった。 「あそこに、変なのがいるでしょ」  和樹がそういっても「いる?」と首を傾げる。そして「きっと気のせいよ」と、いわれるのが常だった。  和樹は自分にしか見えないらしいそれらを、怖いとは思わなかった。  空を飛んでいる鳥や、道を横切る野良猫と同じで、それらもただ同じ場所に居合わせただけの何かに過ぎない。  しかし和樹が「なにかいる」という度に、家族はだんだんと困ったような表情になっていった。  だからこそ和樹は、妙なものを見てもそれを口にすることはあまりしなくなった。  実際に以前と比べると、それらを見る機会も減っていった。  しかしそれらはネノシマと同じで見えるとか、見えないに関わらず、今も変わらずに存在しているのだろうと思う。  だからこそ和樹は、妙なものを見るとネノシマを思い出すのだった。 ◆  夏休みに入ってからは、毎朝六時に起きてラジオ体操にいっている。  和樹は学校がある日は七時に起きているので、夏休みの現在の方が早起きをしている。普段より一時間早く起きるのは、和樹にとってかなり苦痛だった。夏休みだからと毎日夜更かしをしているので尚更のことである。  半分寝ぼけたままラジオ体操にいって帰ってくると、和樹は再び自室で二度寝をする。そうしていると八時頃に両親が、和樹の部屋を開けて「いってきます」と声をかける。和樹は「いってらっしゃい」と、ベッドの上で両親を見送るのが最近の日課だった。  両親は旅行会社に勤務しており、この時期は繁忙期でとても疲れている。そのため夏休み期間中は、祖父母の家で朝食と昼食をお世話してもらっている。両親については、車の中や会社についてから、朝食を食べているらしい。  祖父母の家とはいえ、和樹たちの家と祖父母の家は一階部分に渡り廊下がある。両親が今の家を建てる際に祖父母の家も少しリフォームして、その渡り廊下を作ったらしい。つまりは大きな意味では、祖父母の家と和樹たちの住む家は二世帯住宅なのだった。  しかし互いの家に行き来する時は、玄関を使用することが圧倒的に多い。靴を履く手間はあれど、一階の渡り廊下を使用するのは雨の日くらいのものであった。  和樹はその日も玄関から祖父母の家に向かった。  まだ午前八時であるが、すでに日も高く、気温も上昇していた。  和樹たちの家の前には、祖母が管理する庭と家庭菜園がある。家庭菜園といっているのは祖母だけで、和樹たちはそれらを畑と呼んでいる。  祖母はそれらを管理するのがなにより好きだといっていた。つまりそれらは、祖母にとってのお城なのだった。  祖母は本日も精力的に庭いじりをしていた。現在はナスやトマト、キュウリが収穫の時期である。さらに最近は、レモンの木の摘果にも忙しいようである。  和樹が庭にいる祖母に声を掛けると「朝ご飯。用意してあるから、適当に食べてね」と顔を上げた。 「おばあちゃんは、涼しいうちに庭のことやっちゃうから」  和樹は「わかった」と返事をして、祖父母の家の台所へと向かった。 ◇  祖母がいった通り、食卓にはいつも通り朝食が用意されていた。食パンと目玉焼きと、トマトがメインのサラダ。そして冷蔵庫にはヨーグルトが入っているというメモがあった。  和樹が食パンにジャムを塗っていると、兄の翔太朗が「もう暑いんだけど!」といいながら台所に現れた。 「あれ、ばあちゃんは?」 「庭にいたよ。涼しいうちに庭のことやりたいんだって」 「さっきもいったけど、すでに暑いよな」 「暑いね」 「な」  翔太朗は肩に掛けた野球カバンを床に置いて、和樹の向かいに座った。 「今日は練習? 試合?」  和樹は聞いた。 「今日は練習」  翔太朗は何もつけずに、食パンを口に放り込んだ。  翔太朗は小学生の頃から地元の野球チームに所属していた。そして現在は君山きみやま》商業高校の野球部に所属している。君山商業高校は、野球の強豪校である。 「和樹は今日、なにすんの?」 「決めてない。でも、絵は描くと思う」  和樹は幼い頃から翔太朗とキャッチボールをしていたし、翔太朗のグローブもお下がりとしてもらっている。しかし和樹は翔太朗と同じ野球チームに入ることも、小学校の野球部に入ることもなかった。  和樹がその選択をしたことについて、両親は少なからず落胆したように感じている。両親はスポーツ全般が好きで、休日には翔太朗の試合にも練習にも顔を出している。さらにはスポーツ専用のチャンネルを毎日のようにチェックしている。 「今はなに描いてんの?」 「垣根の近くに咲いてる、オレンジの花」 「ああ、あれか。なんて名前なんだろうな」  翔太朗は立ち上がると、冷蔵庫を開けてコップに牛乳を注いた。しかしコップが半分にも満たないうちに、牛乳は空になったようだった。 「牛乳、もうないのかな」  翔太朗はコップを食卓に置いて、空になった牛乳パックを潰した。 「野菜室の方にあるかも。麦茶もそっちに入ってる時あるから」  和樹がいうと、翔太朗は野菜室の方を開けた。 「本当だ、あった」  和樹が食パンを食べている間に、翔太朗は食卓に用意されていた朝食とヨーグルトを平らげた。それでもお腹が満たされなかったらしく、冷蔵庫にあったゆで卵を食べ始めた。  最近の翔太朗の食欲は異常であるが、太る気配はない。それは野球部の練習がいかに壮絶かを物語っているようだった。 「あ、占い! 占いみよ」  翔太朗はそういって、テレビをつけた。  毎日そうしているのかは不明であるが翔太朗は和樹と朝食を食べていると、必ず占いをみる 「さそり座は三位か」  和樹と翔太朗は、ともにさそり座である。 「ラッキーアイテムは、四月生まれの友だちって。友だちってアイテムなのか?」  翔太朗はテレビにツッコミを入れた後で「四月生まれかぁ」と、思考を巡らせ始めた。 「すぐに思い出せるのは、(たけし)くらいかな」 「毅って、北川(きたがわ)毅くん?」  北川毅は翔太朗と同じ野球チームに所属しており、さらには翔太朗の小学校、中学校の同級生であった。翔太朗と関わりが深いため、和樹も毅とは顔を合わせる機会が多かった。  毅は面倒見がよく、和樹の足の速さをいつも大袈裟に褒めてくれた。和樹はそれがとてもうれしかった。 「そうだよ。毅は学年で一番くらいに誕生日早かったからな。四月五日だったかな。とりあえず四月の一桁生まれだよ」 「なんか、そんな感じだね」  和樹がいうと、翔太朗も「だな」と同意した。 ◇  和樹が食パンにジャムを塗っていると、翔太朗が「もう暑いんだけど!」といいながら台所に現れた。 「あれ、ばあちゃんは?」  翔太朗は先ほどと同じ言葉を発した。 「庭にいたよ。涼しいうちに庭のことやりたいんだって」 「さっきもいったけど、すでに暑いよな」 「暑いね」 「な」  翔太朗は肩に掛けた野球カバンを床に置いて、和樹の向かいに座った。  床に置かれた野球バックは、先ほどとまったく同じ形をしている。  自分はタイムリープをしたのだろうと、和樹は静かに納得した。 「今日は練習だっけ?」 「そうだよ。練習」  翔太朗は何もつけずに食パンを口に放り込んだ。 「和樹は今日、なにすんの?」 「決めてない。でも、絵は描くと思う」 「今はなに描いてんの?」 「垣根の近くに咲いてる、オレンジの花」 「ああ、あれか。なんて名前なんだろうな」  翔太朗は立ち上がると、冷蔵庫を開けてコップに牛乳を注いた。 「牛乳、野菜室の方にもあるよ」  翔太朗は「了解」といって、空になった牛乳パックを潰した。  それから翔太朗は用意されていた朝食とヨーグルと食べ終えると、冷蔵庫にあったゆで卵を食べ始めた。 「あ、占い! 占いみよ」  翔太朗はそういって、テレビをつけた。 「今日のさそり座は三位だよ」  翔太朗は「そうなの?」といいつつも、テレビから目を離さなかった。 「ラッキーアイテムは、四月生まれの友だち」 「それってアイテムなのか?」 「わかんないけど」  和樹とそんな会話をしながらも、翔太朗は真剣に占いを見つめた。  そしてさそり座の占いが終わった後で「本当だ」と、小さく息を吐いた。 「またタイムリープしてたの?」 「うん、今回は十五分くらい。毅くんは四月生まれなんでしょ。四月五日生まれだと思うって、さっきお兄ちゃんがいってた」 「毅? ああ、北川毅な。そうだな。毅は四月の一桁生まれだった気がする」 「四月生まれっぽいよね」  和樹が先ほどと似たようなことを口にすると、翔太朗も「だな」といった。 「和樹のタイムリープって、いつ起こるのかわかんないんだっけ。わかれば便利そうなのにな」  和樹が初めてタイムリープを経験したのは、約一ヶ月ほど前のことである。  なにがきっかけだったとか、明確な線引き存在しない。ただ気付くと、和樹は短いタイムリープをしていた。それが三日連続で起こったので、和樹はそれを家族に話してみた。  両親は和樹の話を否定も肯定もせずに「とりあえずそのことは、他の人にはいわない方がいい」といった。  おそらく当時は和樹の話を半信半疑、もしくは信じていなかったのだろう。  しかし和樹が些細なことを言い当てると、その度に「なんでわかったの?」と不思議そうにいった。  そんなことが続いたせいか、和樹が短いタイムリープをしていることは受け入れてくれつつある。  和樹のタイムリープは一日に一度、無作為に起こる。さらにその時間は五分から三十分程度である。  だからこそ和樹は、この現象を便利でも不便でもないと思っていた。  しかし最近は、このままではよくないことが起きるのではないかと思い始めていた。  和樹の周りではタイムリープ以外にも、妙なことが起きていたからである。 ――時間を戻そうとしてはならぬ  ここ数日は、そんな声も聞こえるようになっていた。
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