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第十章【遊ぼう】時右衛門
時右衛門は時々、人に見えないものを見た。
しかしそんな自分の体質も、成人すると次第に落ち着いていったようだった。
時右衛門は成人してほどなく結婚し、三男一女を授かった。
子どもたちの成長を見るのが楽しくて仕方ない頃、時右衛門は毎夜同じ夢を見るようになった。
それを妻に話すと、僧侶に相談してはどうかといわれた。
「それはあなたに、枕返しが憑いているせいでしょう。この辺には数年に一度、枕返しが現れるのです。しかし心配はいりません。放っておけば、そのうちどこかへいってしまうのが常ですから。枕返しは座敷わらしの別の姿ともいわれておりまして、幸福を呼ぶこともあるそうですよ」
僧侶はなんでもないようにいった。
「予知夢を見る者もあるようですが、特に害はありません。それは枕返しがほどなく去る予兆ともいわれております」
その後も時右衛門は、何度も同じ夢をみた。
そして僧侶がいったように予知夢を見るようになった。それは時右衛門が眠っている時、起きている時に関わらず、それをみた。
そんなある夜、見たことのない子どもが枕元に立っていた。
おそらく枕返しの姿だろうと時右衛門は理解した。
「枕返しか?」
時右衛門が声をかけると、枕返しは笑顔を見せた。
「予知夢をみるのは、大変おもしろい。その時間も自由にできるなら、より楽しいだろうと思う。長く私に憑いているのだろう。一度くらい好きにさせてはくれないか」
時右衛門はそんな軽口を叩いた。
しかし枕返しは笑顔を向けるばかりだった。
そして翌日、それは起こった。
「時右衛門! 大変だ!」
木登りをして遊んでいた娘が、頭から落ちて大騒ぎになっていた。
時右衛門はすぐにそこへ駆けつけた。
娘の頭部からは、大量の血が流れていた。愛らしい娘の顔は次第に白くなっていった。
武士たるもの、動揺を悟られてはならない。感情を出すことは美徳に反する。こんな時でも、こんな時だからこそ、時右衛門は冷静になろうと試みた。
しかし、無理だった。
時右衛門は血の気の失せた娘を抱きしめて「嫌だ」と、くり返した。
「戻して下さい。時間を、戻して下さい」
時右衛門は祈るようにそういった。
そして時は巻き戻った。
悪夢のような予知夢から目が覚めた。
「遊びにいってきます」
見送ったはずの娘の姿が、そこにはあった。
娘は今にも、外に遊びにいこうとしている。
「待て」
時右衛門は思わず娘にいった。
「今日は遊びにいってはならぬ。今日は、みなで団子を食べにいこう」
時右衛門がいうと、娘はとても喜んだ。
「団子を食べる前に約束をしよう」
時右衛門は娘にいった。
「今後、木に登って遊ぶことは禁止する。そなたはもう、そういう年齢になったのだ。わかるな」
時右衛門がいうと、娘は不服そうにしながらも「はい」と返事をした。
「よし、では出かけよう」
その日、娘には何事も起こらなかった。
そしてその夜、枕返しが時右衛門の枕元に立った。
「予知夢を見せてくれたこと、恩に着ます」
時右衛門はそういって枕返しに頭を下げた。
枕返しは不思議そうに時右衛門をみた。
そして持っていた毬をころころと、時右衛門の方に転がした。時右衛門はそれを受け取ったが、どうすればいいのかわからなかった。しかし枕返しがじっとこちらを見ているので、時右衛門はその毬を枕返しにころころと転がした。
「そろそろ、ここを去る」
枕返しはいった。
「私はまだ、なんのお礼もできていません」
時右衛門がそういっても、枕返しは笑顔のままだった。
「また、遊ぼう」
枕返しは笑顔でいった。
「はい! その約束、必ず果たしましょう」
その日以降、枕返しが時右衛門の前に現れることはなかった。
そして枕返しとの再会が、約束が果たせないまま、時右衛門は天寿を全うした。
枕返しとの約束を果たせなかったことだけが、時右衛門の小さな未練だった。
◇
その未練は小さなものだったが、明確なものだった。
だからこそ時右衛門の未練は次第に人の形と成った。そして適当な人間の枕をひっくり返しては、枕返しを探したのだった。
そんなことをくり返すうちに、時右衛門を絵に収める者が現れた。
時右衛門は微弱な存在だったので、すぐに消えるはずだった。しかしその絵に宿ることで、時右衛門の未練は静かに存在し続けた。
絵に宿った時右衛門は、その近くで眠る者が現れると、やはりその枕をひっくり返した。
「枕返しを探している。子どもの枕返しだ」
誰に届くとも知れない言葉を、時右衛門は枕をひっくり返す度に口にした。
そのうちに時右衛門は絵から出る力もなくなった。
しかし人間たちから異名で呼ばれることで、畏れられることで、なんらかの信仰をされることで、時右衛門は長く在り続けた。
しかし時が経つうちに、その未練も摩耗していった。
どうして自分が存在しているのか、思い出せなくなっていた。
一人で過ごす時間だけがただ積み重なっていった。孤独だった。
すでに自分の存在も曖昧になっていたある日、懐かしい目に出会った。
子どもの目だった。
自分はなんだかずっと、その目を待ち続けていたような、そんな気持ちになった。
その目は自分を世界に繋いでくれるような、自分の存在を認めてくれるような、そんな目にも思えた。
そして時右衛門は吸い寄せられるようにして、その子どもの描いた絵に宿った。
そのうちにその子どもも、時右衛門と同じような孤独を抱いていることが感じられた。自分がここにあるのに、それを誰にも認めてもらえない。そんな孤独を持て余しているようだった。
そんな子どもの絵に宿ったせいのか、時右衛門はほんの少しだけ記憶を取り戻した。
自分は時間を戻したことがある。
だからこそこんなにも長い間、この世界にとどまることになった。孤独を強いられることになった。
そんな気がする。
きっとこれは禁忌を犯した罰なのだ。
時右衛門はそう思うようになった。
――時間を戻そうとしてはならぬ
にわかに記憶を取り戻した時右衛門は、子どもにそう言い続けた。
しかしその言葉は子どもには届いたり、届かなかったりしているようだった。
そうしている間に時右衛門は子どもから引き離され、僧侶に憑いた。
そして久しぶりに人間と話すうちに、自分にはなんらかの未練があったことを思い出した。しかしそれがなんなのかは思い出せなかった。
それでも、どんなことがあっても、あの子どもが時間を戻そうとすることだけは阻止せねばならないと思っていた。
しかし、その瞬間はやってきた。
「時間を戻して下さい!」
子どもは涙を流しながらいった。
いつかの自分のように、そう願った。
だからこそ時右衛門は、なんとしてもそれを止めたいと思った。
しかしそれを阻止しようと伸ばした自分の手は、優しいものではなかった。
自分の手が想像したそれと違っていると気付いた時、時右衛門はようやく不思議に思った。
なぜ、この子どもを懐かしいと感じたのか。
なぜ、この子どもに憑いてから、記憶を取り戻していったのか。
なぜ、この子どもは時間を戻せると思ったのか。
自分はなにか大切なものを忘れている、そう思った。
瞬間、まばゆい光に包まれた。
眩しさに目を閉じた直後、時右衛門はすっかり自分の記憶を取り戻していた。
孤独に押しつぶされていた自分の記憶が、戻ってきていた。
そして目の前には、待ち望んだ時間があった。
「遊ぼう」
それはいつか見た枕返しの姿だった。
それは子どもから感じた、懐かしさの正体だった。
「ええ、遊びましょう」
時右衛門がいうと、枕返しは持っていた鞠を転がした。
その鞠を返すと、枕返しは満足そうに微笑んだ。
「あの時、私はあなたにお礼をいえていませんでした。私に予知夢を見せて下さり、ありがとうございました。おかげで、幸せな人生を送ることができました。大変、幸せな人生でありました」
枕返しは、再び鞠を投げてきた。そして時右衛門もそれを返した。
それを何度もくり返すうちに、凍っていた自分の心が溶けていくことが感じられた。
投げた毬が返ってくる。
それだけのことが、うれしくて仕方がなかった。
「楽しいですね」
時右衛門がいうと、枕返しは「楽しい」と笑った。
それから時右衛門と枕返しは、手を振り合ってお別れをした。
時右衛門は枕返しに、何度も何度も手を振った。
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