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第二章【厄年とか】凪砂
窓の外からは、夕暮れの気配が感じられた。
「そろそろ走りにいこうかな」
僕はテレビ画面を見つめたまま、ぽつりといった。
「浜辺?」
朔馬はいった。
僕は最近、日が暮れる頃に適当にその辺を走っている。それは浜辺だったり、近所の道路だったり、走る場所は決まっていない。
「今日は浜辺の気分じゃないかな。小学校くらいまで走ろうかな」
僕はゲームのコントローラを置いて、両手を上に伸ばした。
クーラーの効いたリビングでゲームをしていたので、僕の体は凝り固まっていたらしく体からは変な音がした。
「二人は毎朝浜辺を走ってて、飽きないの?」
僕がいうと、朔馬は意見を求めるように波浪をみた。波浪も毎朝浜辺を走る習慣があるためである。
波浪は僕の双子の姉である。波浪は僕とは違ってゲームを一切しない。その代わりに、幼い頃から編み物をしていることが多かった。僕がゲームをしている間、波浪はいつもその背後で黙々と編み物をしている。今では波浪の編んだコースターが、両親の勤める伊咲屋で使用されたりしているらしい。
波浪は朔馬の問いに「どうだろう」と、視線を浮かせた。
「飽きるとか、考えたことなかった」
波浪はいった。
「俺も考えたことなかったな。凪砂は、なにに飽きるの?」
朔馬はいった。
「え。景色とか。色々」
僕の言葉は二人には理解されなかったらしく「わからないなぁ」という顔をされた。
「俺がおかしいのかな。毅も、ずっと浜辺走ってたもんな」
波浪が毎朝浜辺を走るきっかけを作ったのは、幼なじみの北川毅である。
毅は家が近所で同級生なので、僕たちは生まれた時から一緒だった。毅がある日「今日から毎朝浜辺を走るぞ!」と、僕たちにいった。それは小学二年生の時だったと思う。
僕は気が向いた時にそれに付き合う程度であったが、波浪は毎朝それに付き合った。なんなら毅がサボる日があっても、波浪は浜辺を走っていた。
僕は気が向いた時に浜辺を走っていたが、中学生になると僕がそれに参加するのは土日だけになった。
そして高校生になった現在、毅は野球部の寮に入った。
それはつまり「走るぞ!」と強制してくる存在がいなくなったことを意味している。そのため僕は高校生になってからは、土日さえ走らなくなった。僕が体を動かす時間といえば、週三回の体育の授業だけである。
さすがにこれは運動不足かも知れない。
そう思い始めたのは五月頃だった。
ちょうどその時期に、朔馬が転校生として僕の前に現れた。
そして色んな事情が重なり、朔馬は我が家に住むことになった。
朔馬はネノシマから日本へと逃げてしまった鵺を討伐するために日本にやってきたと僕たちが知るのは、それからほどなくのことだった。
朔馬は現在、ネノシマの妖将官という職に就いている。それは妖怪を相手にする官吏の総称である。つまり朔馬はネノシマの公務員なのである。妖将官は若い者が多いと聞いているが、朔馬はかなり若い方なのだろうと思う。
朔馬は僕たちと同じく十五歳の人間であるが、想像もできない努力を積み重ねた上で今の職に就いていることはいわずとも肌で感じられた。
朔馬が我が家に住むようになってからは、妖怪と出会ったり、ネノシマを行き来したり、そんな出来事が当たり前になっている。
そして僕はその度に、朔馬の力に頼っている。
僕はそんな朔馬に少なからず影響を受けており、自分ももう少し体力をつけようと思うようになった。安易な発想ではあるが、僕は毎日走ることを自分に義務付けた。
最初こそは二人のように、朝の涼しい時間帯に走ろうと思っていた。しかし走ること以上に早起きすることが難しかったので、僕は日が暮れてからその辺を走るようにした。
毎日走っても、誰に褒められるわけでもない。しかし走った後は「今日のやるべきことはやった」という達成感が得られる。たったそれだけのことであるが、僕はただ走っている。
「毅は単純に、道路を走るのが嫌なんでしょ。道路を走りすぎると膝によくないとか、信号待ちも面倒だっていってた気がする」
波浪はいった。
「そんなこともいってたな。でも俺が走る程度なら、道路を走っても問題ないよね」
波浪は「問題ないと思う」と適当な感じでいった。
「小学校って、どの辺にあるの?」
朔馬はいった。
「いったことなかった? ここから二キロくらいかな。一緒に走る?」
僕がいうと、朔馬は「いってみたい」と即答した。
◇
朔馬は僕の走る速度に影響が出ないように、僕の少し後方を走ってくれていた。
後方に朔馬がいるだけで、大きな何かに護られているような、そんな安心感が得られるので不思議なものである。
僕は幼い頃は、走ることがそれほど好きではなかった。
波浪も毅も幼い頃からとても足が速く、僕はいつも二人に追いつけなかった。二人には絶対に勝てないという意識が植え付けられていたからこそ、僕はおそらく拗ねていた。
しかし中学生になって実施されたスポーツテストの結果をみて、僕はようやく知ることになった。波浪と毅が尋常でなく運動神経がいいことを、知ることになった。二人の運動神経が異次元なだけで、僕自身にはそれなりの運動神経が備わっていることを、知ることになった。
小学生の頃、僕はリレーの選手に選ばれることが常であった。しかし僕はそのことに関しては「よくわからないが、選ばれる仕組みになっているらしい」としか思っていなかった。足が速い者が選ばれているとはいわれていたが、なぜかそれを信じてはいなかった。
実施されたスポーツテストの結果は、数字がただ羅列されているだけだった。しかしその無機質な数字は、信頼に足る客観性だと思った。
それ以降、僕は以前ほど走ることが苦痛ではなくなった。
小学校まであと一キロという距離に来た頃「あれ、凪砂?」と、僕たちを追い抜いた自転車がこちらを振り返った。
「やっぱり、凪砂だ」
声を掛けてきたのは、瀬谷翔太朗だった。
翔太朗とは小、中学校の同級生で、何度か同じクラスになったこともある。さらに翔太朗は毅と同じ野球チームだったので、僕たちは必然的に仲がよかった。
「うん、久しぶり」
僕は短くそういって走る速度はそのままに、自転車にまたがったままの翔太朗を追い抜いていった。
「え、そんなことある? 俺たち、仲良かったよね」
翔太朗はそういいながら、自転車で僕の横を並走した。
「いつでも、会える、だろ。今、ちょっと、疲れてんだよ」
僕の声は、自分が思う以上に苦しそうだった。
「そりゃ、走ってれば疲れるだろ」
翔太朗は自転車を漕ぎながら、涼しい顔でいった。
翔太朗は制服姿であるが、自転車のカゴには野球カバンが乗せてあった。おそらく部活帰りなのだろう。中学の野球部は練習着で帰宅する生徒が多かったが、高校ではそれは許されないらしい。
「後ろの人って、凪砂と一緒に走ってるんだよな?」
翔太朗は声を潜めていった。
僕が「そうだよ」と答えると、翔太朗はにこやかに「初めまして、瀬谷翔太朗です」と朔馬を振り返った。
「あ、朔馬。桂城朔馬です」
後方を走っている朔馬は、息切れした様子もなくいった。
「え? あ、女の子かと思った。かわいい顔してんな」
翔太朗は僕にだけ聞こえる声でいった。
朔馬を女の子だと勘違いした自分が面白かったのか、翔太朗は一人で笑いを噛み殺していた。
「で、どこまで走んの?」
翔太朗は気を取り直した感じで、僕に質問をした。
「えっと、小学校。そんで、折返し」
翔太朗は「えー、小学校か」と、なぜか不満げな声を出した。
「凪砂んちって、伊咲屋の隣だよな。伊咲屋から小学校って二キロもないだろ」
およそ二キロという感じだったので、翔太朗のいう通りであった。
「どうせなら中学校まで走ろうぜ。あっちの道なら、信号もないし」
翔太朗はそういって、前方の細い道を指した。
「日中も日陰だし、絶対涼しいって」
それから翔太朗は僕たちを誘導するように、自転車で僕の少し前を走った。
翔太朗の提案を無視して予定通りの道を走ることもできたが、中学校まで走るのも悪くないなと僕は思い始めていた。さらには翔太朗のいう道は、たしかに涼しいように思われた。僕がちらりと朔馬の方を見ると、朔馬は「いいよ」という感じでうなずいた。
僕たちが着いてきたことを確認すると、翔太朗は「いいね」と笑った。
それから僕はなにも考えずに、翔太朗の自転車に着いていった。
遠回りをさせられていると気付きながらも、少しずつ速度を上げられていると気付きながらも、僕はそれに言及する余裕なく走り続けた。
中学校に到着すると、翔太朗は「お疲れ」と笑顔だった。
「よく着いてこれたな。高校では帰宅部って聞いてたけど、毅の冗談?」
「帰宅部、だよ。だいぶ、疲れた!」
僕はそういいながら、よろよろと校庭の手洗い場に向かった。
「その体力で帰宅部かよ。あ、ちょっとアイス買ってくるわ。ここで待ってて」
「え?」
翔太朗は一方的にそういうと、自転車で颯爽と中学校を走り去った。
僕と朔馬が顔を洗って一息ついた頃、翔太朗はビニール袋をぶら下げて戻ってきた。
「はい、お疲れ様のアイス」
翔太朗はそういって、二つに分けられるアイスを僕に差し出した。
「遠慮なくもらうけど。ありがとう」
僕は受け取ったアイスを割って、片方を朔馬に渡した。
「俺ももらっていいの?」
朔馬はアイスを受け取った後で、翔太朗をみた。
「もちろん。いいよ」
翔太朗は愛想よく微笑んだ。
今も朔馬を女の子と思っているわけではないだろうが、単純に顔が好きなのだろう。朔馬は中性的で整った顔をしているので、気持ちはわからないでもない。
「凪砂の、高校の友だち?」
翔太朗は僕たちと同じアイスを口にしながらいった。あまった一つは自転車カゴに入れてあるようである。
「うん。俺と毅と同じクラス」
朔馬が我が家に住んでいることは隠しているわけでもないが、聞かれない限りは僕からはいわないようにしている。
「毅も同じクラスなのか。毅、元気? 今年の白桜高校は不作だっていわれてるけど、順当に勝ち進んでるよな。三年生の投手陣が微妙らしいな」
「そうなの? 初めて聞いた」
「不作といっても、例年に比べたらって感じだけど」
僕たちの通う私立白桜高校は甲子園の常連校である。しかし当然のことであるが、地元の強豪校に勝たなければ甲子園にはいけない。その強豪校の一つが、翔太朗の通う君山商業高校である。
「君山商業は勝ち進んでる?」
「本当に野球に興味ないんだな。勝ってるよ。白桜と当たるなら決勝だな。毅と、野球の話とかしないの?」
「毅は俺たちの前では、野球の話はほとんどしないよ」
「俺の周りは野球やってる人しかいないから、変な感じだな。朔馬くんは野球やってる?」
翔太朗は朔馬をみた。
「やってない、です」
朔馬はなぜか少し緊張したように答えた。
おそらく自分に話題が振られるとは思っていなかったのだろう。
朔馬はネノシマ関連の大人や、妖怪とか神様には、一切物怖じしない。しかし同級生や、僕の両親など、近しい者には必要以上に遠慮深くなる。僕は朔馬の意味のわからない遠慮深さや、肝の据わり方がとても好きだった。
翔太朗は「なんで敬語なんだよ」と短く笑った後で、自分も馴れ馴れしくするから朔馬もそうして欲しいといった。
「双子はずっと毅と一緒ってイメージあるけど、野球とか全然影響されなかったんだな」
翔太朗はそういいながら、二つに割ったもう一つのアイスを開け始めた。
「キャッチボールは一緒にしてただろ。でも和樹も、野球はやってないんだろ。結局は性格だよ」
和樹は少し年の離れた翔太朗の弟である。
「それもそうか」
翔太朗は納得するようにいった。
「和樹、元気?」
毅と翔太朗は、中学三年生の秋頃に野球チームを引退した。
運動する機会を失った者たちは放課後、公園の球技場でキャッチボールや自主練をするようになった。僕もそれに付き合ったりしていたが、早々に飽きることが常だった。そのため翔太朗にくっついて来た和樹に、遊び相手になってもらうことが多かった。
和樹は幼い頃から野球をしている翔太朗の側にいたわけであるが、彼も僕と同じく野球には興味がないようだった。
和樹は球技場近くのベンチに座り、スケッチブックを広げていつもなにかを描いていた。
「和樹は、まあ元気だよ」
「なんだよ。含みがある言い方だな」
僕がいうと翔太朗は、僕と朔馬を交互にみた。
「はずそうか?」
朔馬はいった。
「いや、全然いいよ。でもこれからする話は、できれば内緒にして欲しい」
翔太朗はいった。
「俺、大抵のことはハロにはいうよ。知ってると思うけど」
僕は正直にいった。
ハロとは波浪の幼い頃からのあだ名である。
「そうだよ、凪砂はそういうヤツだったよ。まあでも、ハロならいいよ」
「いいんだ?」
「でも、ハロにも口止めしといて」
「それはいいけど。なにか重要なこと?」
「重要なことというか。変なことかな」
翔太朗はそういって、空になったアイスの容器をビニール袋に入れた。
「二人はさ、今もネノシマ見える? 俺はもう、ほとんど見えないんだけど」
和樹の話をしていたはずであるが、翔太朗は唐突にいった。
「俺は見えるよ」
僕がいうと、朔馬も「見えるよ」と答えた。おそらく翔太朗は、朔馬も地元の人間だと思っているようである。
「二人とも見えるのか。それはちょっと安心したわ。和樹もさ、ネノシマが見える人種なんだよね。というか、変なモノが見える人種っていうのかな。そんな感じ」
「そういう人もいるだろ」
僕自身も最近そういう人種になったので、特に驚きはなかった。
「まあ、そこまではいいんだけどさ。和樹は最近、自分がタイムリープしてるっていうんだよ」
翔太朗の言葉を飲み込むために、僕は一瞬無言になった。
「タイムリープって、あれだよね。時間が戻るやつ」
僕はいった。
「そう、戻るやつ。最初は聞き流してたんだけど。最近は無視できないっていうか。本当にタイムリープしてるんじゃないかって、思うことがあってさ。すごい具体的に未来のこと言い当てるんだよ」
「例えば?」
「朝の占いでさそり座が何位だとか、ラッキーアイテムがなんだとか」
「本当に具体的だな」
「そうなんだよ。でもタイムリープっていっても地味なんだよね。一日に一回、時間が戻るのは最大で三十分なんだって」
「本当に地味だな。でも和樹は変なことをいって、人の気を引くタイプではないよな」
僕はいった。
「まあね。でもタイムリープだけじゃなく、最近は毎晩寝る前に着物の女の子が出るって、いってるらしいんだよね。変なものが見えるとかいっても、いつもはその場限りって感じだったけど。今回はそうじゃないみたいでさ」
翔太朗はそういって、小さく息を吐いた。
「うちの親って夏休みが繁忙期だから、最近かなり忙しいみたいなんだよね。休みの日は野球部の父母会に顔出してくれたりしてありがたいんだけど、和樹にとっては寂しかったりするのかな。和樹は俺と違ってしっかりしてるから、親も放任してる部分があるんだよね」
同級生といえど、和樹を心配する翔太朗は兄の顔であった。
「和樹本人も心配ではあるんだけど、ばあちゃんもちょっと心配なんだよね」
翔太朗は思い出したかのようにいった。
「急にばあちゃんの話か」
「急にばあちゃんだよ」
翔太朗は真剣な顔でうなずいた。
「ばあちゃんは昔から和樹のこと溺愛してるから、今回のこともだいぶ心配してるみたいなんだよ。お祓いしてもらえって、お母さんにいってるらしい。どこまで本気かはわかんないけど、急にお祓いに連れていかれたら傷つかない?」
翔太朗は意見を求めるように僕を見つめた。
「和樹がどう思うかはわからないけど、お祓いも悪くない選択肢だとは思うよ。俺たち、たまに雲岩寺でバイトしてるんだけど。そういう人もめずらしくないよ」
僕が朔馬をみると、朔馬はうなずいた。
「え、バイト? 知らなかった」
「バイトというか、頼まれた時に境内の掃除をするくらいだけどね」
実際はそれだけではなかったが、ここですべてを翔太朗に打ち明ける必要もないように思った。
「どんな人がお祓いにくるの?」
「厄年の人とか」
「厄年か。ばあちゃん世代だと、気軽にお祓いいったりしてるのかな」
気軽かは不明であるが、年配の人の方が敷居が低いように感じられる。
「なにかできるわけでもないけど、俺たちで和樹に会ってみようか? 雲岩寺に連携した方がよさそうなら、窓口にはなれると思う」
「いいの?」
僕が「いいよね?」と、朔馬に問うと「いいよ」と即答してくれた。
「二人にアイス奢ってよかったぁ」
翔太朗は大げさに両目を閉じて、天を仰いだ。
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