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第三章【どれだけ傷つくのか】理玄
夏になるとお祓いの依頼が増える。
以前、凪砂になぜかと問われた際に、理玄は「一部の人間が暇になるから」と答えた。
しかし本日、同じ質問をされたら「夏は棚経があるので、自分が人と話す機会が普段よりも多くなるせいだ」と答えただろう。
「孫が、タイムリープっていうんでしたっけ。そういうのが起きるって、少し前からいってるんです」
棚経を終えると、瀬谷夫人は理玄に熱いお茶を出してくれた。氷の入った麦茶を出してもらうことが多い今日この頃、胃を休めたい理玄にとっては大変ありがたかった。
お盆を約二週間後に控えた今「棚経はいつでもいい」という人を優先的に訪問している。お盆の四日間は僧侶の理玄にとっては、毎年記憶がないほどに忙しい。お盆中の棚経に関しては、お茶などはあらかじめ断っている。しかしお盆期間中ではない棚経の際には、誘われるままにお茶をいただくこともある。
本日は瀬谷家での棚経を終えると、午前の予定は一段落する。そのため理玄は夫人のご厚意に甘えて、お茶に口をつけた。
「タイムリープですか。それは興味深いですね」
理玄は深く考えずに、思ったことを口にした。
「孫はまだ小学生ですし、そんなことを思いたい時期なのかも知れません。しかしどうにも、信憑性があるんです」
瀬谷家は二軒の家をつなぎ合わせるように、家の間に渡り廊下が存在する。こういう二世帯風の家は、この辺にはそれなりに多くある。
瀬谷夫人のいう孫というのは、隣というか一緒に住んでいる娘夫婦の息子たちのことだろう。小学生の孫ということは、つまり弟の方である。
「えっと、和樹くんでしたっけ?」
「そうです。和樹が、そんなことをいっているんです」
「信憑性があるというのは、どうにも気になりますね」
それから瀬谷夫人は、和樹が具体的に未来を予知した話をしてくれた。それらはあまりにも些細なことで、だからこそ「信憑性がある」というのは納得がいく話であった。
「一日に一回、長くて三十分。子どもがつく嘘にしては、やけに設定が細かいというか地味だなとは思っていたんです。でも先ほどもいったように信憑性があるので、私もそれをどこまで信じていいのかわからなくなってしまって」
理玄は意見みたいなものはいわず、共感するようにただ「そうなんですね」といった。
そんな理玄の反応を見て安心したのか、夫人はさらに続けた。
「タイムリープだけじゃなく、最近は寝る前に着物の女の子が部屋に現れるとか、そんなこともいってるらしいんです。その話は直接和樹から聞いたわけではないんですけど、どうにも心配になってしまって」
正体不明なものを見聞きして、雲岩寺にお祓いを依頼する者は多い。しかしそのほとんどは、妙な気配がするとか、妙な音がするとか、曖昧なものを恐れる者が圧倒的に多い。だからこそ見えているものがはっきりしているのは、めずらしいことだった。
「同じ世界に生きていても、子どもは私たちとは少し違ったものを見ているとは言いますからね」
理玄がいうと、夫人は「本当に、その通りだと思います」と息を吐いた。
「和樹は昔から敏感な子で、何もない物陰をじっと見つめることがあるような子どもでした。今より幼い頃は、変なものが見えるなんていうことも日常茶飯事でした。でもここ数年は、だいぶ落ち着いておりました。だから今、和樹の身になにかよくないことが起きてるんじゃないかと気になってしまって」
理玄は「そうなんですね」と、夫人の言葉を受け止めた。
「ちなみに和樹くん本人は、怖がっていたり、困っている様子はありますか?」
「いえ、そういう様子はありません。だから娘夫婦も、和樹をあまり気にした様子はないんです。でもそれが、私にはもどかしいんです。和樹は感情を表に出すのが苦手な子ですから、内心はどう感じているのか本人にしかわかりませんから」
夫人はそういうと、お茶をに口をつけた。
「自分の気持ちを他者に伝えるのは、子どもにとっては難しいことです」
理玄がいうと、夫人はうなずいた。
「和樹の兄の翔太朗は娘夫婦に似て活発で、スポーツも好きなんです。今も高校の野球部に入っていて、色んな人に目をかけてもらっているんです。でも和樹は私に似て、スポーツやそういうものに関心がないようなんです。だからもしかしたら、寂しい思いをしているんじゃないかとも思っているんです」
理玄は無言でうなずいた。
「子育てに口を出すと碌なことがないので、娘にはなにも言わないんですけどね。私はできるだけ、和樹には目を掛けているつもりなんです。でも子どもが欲しいものは、いつだって親の愛情ですから」
瀬谷夫人は困ったように微笑んだ。
兄の翔太朗が野球をしていることは知っていたが、和樹が野球をしていないことは初耳であった。兄がスポーツをしていれば、弟も同じ競技をすることが多い。しかし瀬谷家ではそうはならなかったらしい。
「自分を気にかけてくれる存在が一人でもいれば、それは間違いなく大きな支えになると思います」
「そうなりたいものです」
その直後「お邪魔します」と、玄関の方から声がした。
「あ、和樹です。夏休み中は、こっちの家にお昼を食べに来るんです」
理玄がお茶をいただいている部屋は、玄関の横の仏間である。
暑いからと縁側と玄関側の廊下の襖が開けられていたので、玄関側の廊下から和樹の顔が見えるのは必然であった。
和樹がスケッチブックを持っていることには、理玄はすぐに気が付いた。野球には関心がないらしいが、絵を描くことは好きなようである。
和樹は警戒しながらも「こんにちは」と、廊下から理玄に挨拶をした。玄関にある理玄の雪駄を見て、誰かが来ていることはすぐに気付いたのだろう。
「こちら雲岩寺の理玄さんよ。棚経に来てくださったの」
「こんにちは」
理玄が笑顔を作ると、和樹はさらに警戒心を強めたようだった。大人の笑顔を警戒するとは、なんとも聡い子どもである。
「もうお昼になりますし、私はそろそろお暇します。ご馳走様でした」
「いえ、なんのお構いもしませんで。変な話を聞かせてしまって、すみません」
夫人は恐縮しながら、理玄とともに立ち上がった。
そして和樹の横をすれ違う際に、理玄は再び笑顔を作って浅く顎を引いた。和樹も呼応するように、軽く頭を下げた。
瞬間、和樹のその側に何かがいることが感じられた。
あまりにもはっきりしたその気配に、理玄は思わず和樹を振り返った。
理玄はお祓いを飯の種の一つにしているが、実のところ見鬼ではない。妙な気配を感じたり、なんだかよくないと思う場所はわかるが、それだけである。
だからこそ和樹の側に何かがいるとはっきり感じるのは、実に不思議なことだった。
立ち止まって動かない理玄を、夫人も和樹も不思議そうに見つめた。
「あの、和樹くん。ちょっと妙なことをお聞きしますが。今、なにかが見えますか? 今、この瞬間です」
正式な依頼を受けていないのに首を突っ込みすぎだとは思う。しかしこの場を無視することは理玄にはできなかった。
和樹を見つめてもはっきりと何かが見えるわけではない。ただそこに何かがいるという感覚だけが強くある。
「見えないです」
和樹はいった。
夫人は意見を求めるように理玄に視線を向けた。こういう時に大人たちが顔を見合わせると、子どもがどれだけ傷つくのかを理玄はよく知っていた。だからこそ理玄はその視線を感じつつも、和樹から目を逸らさなかった。
「ちょっとだけ、背中を触っていいでしょうか?」
理玄の言葉に、和樹は「はい」と背中を向けた。そして理玄は和樹の背中を、手のひらで軽く二回叩いた。
「ありがとうございました。今のは気休めといいますか、魔除けみたいなものです」
理玄が行うお祓いはお経を読んだり護摩を焚いたりと、形式的なものが多い。それによって依頼者たちにどんな効果があるのかは、理玄自身にはわかっていない。
しかし形式的なことを行うことで、それなりに効果はあるらしい。
背中を二回叩く行為は、一般的に邪気払いであるとされている。理玄はその効果を信じているので、和樹にそれを実行したわけである。
「もし気になることがあれば、いつでも雲岩寺に来て下さい」
理玄はそういって、瀬谷家を後にした。
◆
和樹と会った日の夕食後、理玄は自宅の縁側で卒塔婆を書いていた。
そうしている間に、狸丸が庭先に顔を出した。
「なんだ? なんか、変な感じだな」
狸丸は理玄の顔を見るなり、眉間に皺を寄せた。
狸丸は野生のタヌキであると言い張っているが、理玄は妖怪の一種であると思っている。狸丸は妖怪の類が理玄よりもはっきり見えるので、お祓いの現場に着いて来てもらうことも多い。いうなれば仕事仲間である。。
「なんだよ。人の顔を見るなり」
「なにか、妙なものが憑いてる感じがするぞ」
狸丸はきっぱりといった。
「え、今?」
今度は理玄が眉間に皺を寄せる番であった。
「うん、そんな感じがする」
狸丸は嫌なことをあっさり肯定した。
そんな指摘をされると、なんだか肩が重いように感じられた。
「え、嫌だな。お経でも読むか」
理玄はため息をつきながらいった。
「その前に、夕飯だ!」
狸丸があまりにも他人事なので、おそらく大したものは憑いていないのだろう。理玄はそう判断した。
「はいはい、夕飯ね。焼きそばとおにぎりだったけど、両方食べるか」
「焼きそばだ!」
狸丸が焼きそばを食べている間、理玄は瀬谷家での出来事を狸丸に話してみた。
自分が普段と変わったことをしたのであれば、何かが憑いているのであれば、瀬谷家以外に思い浮かばなかったからである。
狸丸はあまり真剣に理玄の話を聞いていなかったが、焼きそばを食べながら「うん、うん」と相槌だけは打ってくれた。
狸丸は焼きそばを食べ終えると、顔を上げて理玄の斜め後ろを凝視した。
「なんだよ、急に黙るなよ。なにが憑いてるのか、わかるのか?」
「わからない!」
狸丸は元気よくいった。
「朔馬たちに相談しよう!」
狸丸のいう「朔馬たち」というのは、朔馬と凪砂と波浪のことである。
理玄にとって三人は、神社仏閣関係者以外で初めて出会った見鬼である。三人に出会った際に、近づきすぎるのは危険だとは思いつつも、繋がりを持ちたいと思ってしまった。だからこそ理玄は、三人を雲岩寺のバイトとして雇うことにしたのだった。
三人に相談したいという気持ちは、少なからず存在する。理玄がはっきりと妙な気配を感じたのは、非常に稀なことだったからである。
しかし夫人から正式な依頼があったわけでもない。つまり今回の件は、完全に理玄の私事なのである。
三人とは親しくしているが、困った時にすぐに三人を頼るような癖はつけたくない。そうは思いつつも、現状で三人の存在が頭にちらつくのだから困ったものである。
自分よりも一回りも年下で、そして自分よりも頼りになる彼らにどこまで近づいていいのか、理玄は今もわからないのだった。いまだに三人との距離を計りかねているのだった。
「相談ねぇ。でも狸丸にも曖昧にしか感じられないものなら、朔馬たちにもわからないんじゃないか」
「朔馬たちなら絶対わかる! 朔馬たちと遊びたい!」
狸丸は地面に背中をつけて、両足をバタつかせた。
狸丸は容赦なく遊んでくれる三人がとても気に入っている。毎回どんな遊びをしているのかは不明であるが、狸丸と遊んだ後の朔馬と波浪は全身泥だらけになっている。凪砂に関してはそれに混ざることも、止めることもしないようであるが、三人とも楽しそうなので何よりである。
「朔馬たちなら、絶対にわかるのか?」
狸丸が必死なので、理玄は半笑いでいった。
「わかる! 絶対わかる! 理玄に憑いてるのは、人間だ!」
「は?」
「だから朔馬たちなら、絶対に見える!」
庭で鳴く虫たちの声が、急に遠のいた。
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