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第五章【世界に触れた】和樹
理玄なる僧侶に背中を二回叩かれた。
魔除けであるとのことだったが、和樹に大きな変化があるわけでもなかった。
しかし理玄に「いつでも雲岩寺に来て下さい」といわれたのは、うれしかった。自分に逃げ場のようなものが確保されたようで、うれしかった。
「理玄さんと、なに話してたの? 僕のこと?」
理玄が帰ったあと、和樹は祖母に聞いてみた。
「ええ、少しだけね。理玄さんも子どもの頃は、人に見えないものを見ることもあったのよ」
祖母はこの辺のことなら大抵知っているが、理玄の子ども時代も当然のように知っているらしかった。
「だから、和樹も最近はそういうことがあるんだって話をね、少しだけしていたの。着物の女の子をよく見るんでしょ? おばあちゃん、それが気になって」
和樹がタイムリープをするようになった頃から、部屋には着物の女の子が現れるようになった。最初こそ見間違いかとも思ったが、それは毎晩和樹の部屋に現れる。
和樹の部屋は二階にある。そしてベランダにつながる掃き出し窓からは、コンビニの看板がよく見える。
和樹は完全な暗闇の中で眠ることが怖いので、いつもカーテンを少しだけ開けて眠っている。そうするとカーテンの隙間からは、コンビニの看板の光が漏れてくる。その光を見つめると、自分以外の人間が起きていることに安心できる。そのため和樹は、その光を見つめながら眠るのだった。
最初にそれを見た日もそうだった。
カーテンの隙間から漏れてくる人工的な光を見つめて、眠気がくるのを待っていた。意識が曖昧になって、眠りに落ちる瞬間にそれが見えた。
和樹よりも少し幼い、着物を着た女の子が部屋に現れた。
和樹がぼんやりとその姿を見つめていると、向こうもこちらに気付いたらしかった。
「アソボ」
アソボ。あそぼ。遊ぼ。
その子が発した言葉の意味を理解したのは、翌朝のことだった。
その夜も和樹が眠りに落ちる寸前に、その子は現れた。その子は和樹がベッドに横になったままでいると、一人で毬をついて遊び始める。
和樹はそれを見つめたまま、眠りへと落ちていくのだった。
和樹が見ていた妙なものに関しては、いつも一時的なものだった。
さらには家の中でそういうものを見たのは初めてだった。
今まで見てきたものとは、性質が違うのではないか。和樹はその子に対してそう思うようになっていた。
だからこそ和樹は、それを母に伝えたのだった。
しかし母は「えー、怖いこといわないでよ」と困ったような表情を浮かべるだけであった。
母はタイムリープについては、それなりに面白がってくれているようではあった。しかし和樹が人に見えないものを見ることは、母にとっては困りごとの一つなのかも知れなかった。和樹もそれを感じ取っていたので、母にこんな話をするのは久しぶりだった。
久しぶりだからこそ、自分の話を真剣に聞いてくれるかも知れない。そんな期待があった。
「そういう話は怖がる人も多いから、他の人にいったらダメだからね」
しかし母はそれ以上、和樹の話を聞いてくれなかった。
仕事が忙しい時期なので、仕方ない。和樹は静かにそう納得した。
和樹が黙っていると、母は「約束」といって小指を差し出した。
その日以来、着物の女の子の話は、和樹は誰にもしていない。
しかし母は、祖母にその話をした。そして祖母は、それを理玄に相談した。
あの指切りについては「和樹が、他の人にその話をしない」という和樹だけの約束だったらしい。
今更それに気付き、和樹は裏切られたような気持ちになった。
「その話、お母さんは他の人にいうなっていってた」
和樹は精一杯の抗議を祖母にした。
「そうね。その方がいいと思うわ。でも理玄さんは、お寺の人だから大丈夫よ」
「お寺の人になら、いっていいの?」
「お寺の人なら、力になってくれることもあるから、いいのよ」
よくわからない理屈であるが、力になってくれる人ならいっていいらしい。
祖母の言葉の意味を飲み込もうと思ったが、それは上手くできなかった。
誰にもいってはいけないといわれた理由は、自分が信用されていないからであると、和樹は感じていた。
見えないものを信じてもらえなくても仕方がない。
でも自分を信じてもらえないことは、想像以上につらいことだった。
◆
理玄に背中を叩かれた翌日、和樹と翔太朗はいつものように祖父母の家で朝食を食べていた。
「凪砂って覚えてる? 伊咲凪砂。毅の幼なじみの」
翔太朗は唐突にいった。
「覚えてるよ。双子の人だよね」
翔太朗は中学三年生の秋頃に野球チームを引退した。
それ以降は公園の球技場で、友人らと自主練のようなことをしていた。和樹はそれにくっついて、公園にいくことが多かった。そんな和樹の遊び相手になってくれたのは、野球部でもなんでもない凪砂だった。
「昨日、凪砂と久しぶりに会ったんだけどさ、今は雲岩寺でバイトしたりしてるんだって」
「え、雲岩寺?」
和樹は思わず顔を上げた。
昨日雲岩寺の僧侶が祖父母の家に来たことを、翔太朗が知っているのかはわからない。しかしそれを確認する間もなく、翔太朗は続けた。
「掃除のバイトだっていってたけど、なんかあれば窓口になってくれるってさ。だから、そういうことに困ってたら凪砂に相談してみたら? 凪砂には和樹の連絡先教えといたから、今日あたり連絡してみな」
翔太朗の口ぶりだとタイムリープだけでなく、部屋に着物の女の子が現れることも母から聞いてそうだなと和樹は思った。
大人との約束は、それらしい理由をつけて破られることが多い。悪気がないことはわかるが、和樹はその度に小さく傷ついている。
「凪砂の連絡先、今送った」
「あ、うん」
和樹はいまいち状況が飲み込めないままであったが、とりあえず送られてきた凪砂の連絡先を登録した。
そうしている間に翔太朗は「いってきます」と、家を出ていった。
「いってらっしゃい」
翔太朗がなんといっていたのか、すでにあまり覚えていないが、とりあえず自分は凪砂に連絡をしないといけない感じだったように思う。
そのため和樹は教えてもらった連絡先に「こんにちは、和樹です」と送った。
ほどなく「こんにちは、凪砂です。今日暇なら公園いかない?」と返事が来た。
翔太朗の友人と個人的に連絡を取り合うのは初めてのことで、なんだか妙な気分であった。
「暇です。何時でも大丈夫です」
「午前中は授業があるから、午後の待ち合わせでもいいかな。日中は暑いから、午後五時くらいはどうかな。帰りは送るよ」
凪砂と会うことに不安はなかった。しかしその文面を見て、久しぶりに凪砂に会えることを楽しみに思った。
◇
「凌霄花を描いてるの?」
縁側で無心に絵を描いていると、庭いじりをしていた祖母が隣に座った。
「うん、そう。あそこのオレンジの花」
名前を知らない花であったが、おそらく祖母がいうならそうなのだろう。
和樹はそういって、スケッチブックを祖母に差し出した。
「汚れちゃうわよ。土いじりしてたから」
「汚れてもいいよ。麦茶とってくるね」
祖母に水分補給をしてもらうのは、和樹の大事な仕事であった。
「いつもありがとね」
祖母はそういいながら、首にかけたタオルで顔の汗をぬぐった。
祖母は真剣なまなざしで和樹のスケッチブックを見つめ始めた。和樹はそんな祖母の顔を見るのが好きだった。
和樹と翔太朗は微妙に年齢が離れており、和樹が小学二年生の時に翔太朗は中学生になった。
つまりは和樹の遊んで欲しい盛りには、翔太朗は野球に夢中になっていた。翔太朗に遊んでもらう時はいつも外だった。しかし翔太朗に遊んでもらう機会が減ると、和樹は外で遊ばなくなった。
ゲームをする時間には制限があったので、和樹は絵を描くようになった。絵を描く時間に制限はなかった。そのため和樹は一人で過ごす時間のほとんどを、絵を描いて過ごしていた。
絵を描くと褒めてもらえることも多かったので、それもうれしかった。
足が速いと褒められるよりも、勉強を褒められるよりも、絵を褒められることがなによりもうれしかった。
そのうちに、誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントと一緒に、スケッチブックが何冊か添えられるようになった。
それから和樹はいつも、スケッチブックを持ち歩くようになった。
スケッチブックには基本的に着色はしないが、夏休み中は絵の具を使った絵も描いている。色をつくることも、自分の絵に色をのせるのも、毎回とても不思議な気持ちになる。
最近はひたすらに、庭の植物を描いている。その前は祖父が収集している骨董品を描いていた。そしてその前は、翔太朗がよく遊んでいるゲームの武器を何種類も描いていた。
和樹はその時々に興味が湧いたものを、飽きるまで描き続ける。
絵を描いていると、自分がいかに世界をぼんやり見ているのかを痛感させられる。絵を描くことで、ようやく世界が鮮明に見えてくる。和樹は絵を描くことで初めて、世界に触れたような、関われたような、そんな気持ちになる。
――時間を戻そうとしてはならぬ
絵を描いていると、そんな声が聞こえるようになったのは最近のことである。
和樹は時間を戻そうとしたことは一度もない。しかしそれを望んだとしたなら、叶うこともあるのだろうか。
そんなことを考えては、和樹はそれを否定する。
そんなことはできるはずがない、と否定する。
和樹が麦茶を持っていくと、祖母は「ありがとう」と微笑んだ。
「ちょっと見ない間に、植物の絵が増えたわね。少し前は奥の座敷の骨董品ばかり描いていたのに」
「今は、庭にあるものを描くのが楽しいんだ」
「楽しいのはなによりね。私も、庭をいじってるのが何より楽しいわ」
祖母は満たされた顔で庭を見つめた。
「おじいちゃんも同じこといってた。骨董品を眺めてるのが一番楽しいって」
和樹がいうと祖母は「ふふ」照れたように笑った。
◆
和樹は凪砂との待ち合わせ時間よりも、だいぶ早く公園についた。
和樹は時間を潰すために、スケッチブックを開いて目についたものを描き始めた。
いつの間にかそれに夢中になっていたらしく、凪砂に「こんにちは」と声をかけられるまで誰かが近づいてきたことにさえ気付かなかった。
「あ、こんにちは」
和樹は慌ててスケッチブックを閉じた。
「ごめん。ちょっと待たせた」
凪砂は手に持っていたビニール袋から二等分するアイスを取り出し、その片方を和樹にくれた。
「ありがとう」
和樹はアイスを受け取った。
「ちょっと久しぶりだよね」
凪砂はアイスを口にして、翔太朗の隣に座った。
「うん。お兄ちゃんが高校生になってから、みんなに会ってない」
それからしばらくは、凪砂と他愛のない話をした。
そして二人がアイスを食べ終えると、凪砂はそれを近くのゴミ箱に捨ててくれた。
「俺が雲岩寺でバイトしてること、翔太朗から聞いた?」
「うん、聞いた。だから困ってることがあれば凪砂くんに話してみればって、お兄ちゃんがいってた」
和樹がいうと、凪砂はうなずいた。
「少し話がずれるけど、昨日は理玄に会ったんだよね?」
凪砂が敬称なしでその名を口にしたので、和樹は一瞬誰のことなのかわからなかった。
「うん、会った」
「背中を二回叩かれたと思うけど、なにか変化はあった?」
「なにもなかったよ」
和樹は正直に答えた。
「つまりタイムリープも、着物の女の子もなにも変わってないってことだよね?」
着物の女の子については、翔太朗から聞いたのか、理玄に聞いたのかはわからない。しかし和樹に何が起きているのかは、凪砂には筒抜けであるらしかった。
「うん、変わってない」
「ちょっと変なことを聞くんだけど、かっこいい侍を見たことある? 人には見えない感じの存在なんだけど」
「見たことない」
見たらきっと覚えていると思うので、和樹は即答した。
「そうか、ないか」
凪砂は何かを思考する顔になった。
「凪砂くんも、人には見えないものが見えるの?」
「うん、少しね。一応、秘密ね。翔太朗にもいってないから」
秘密を守ってもらえないことがどれだけつらいのか理解しているので、和樹は深くうなずいた。
「わかった。いわない」
「俺たちみたいな人を、見鬼っていうらしいよ」
凪砂はいった。
「けんき?」
「見える鬼って書いて、見鬼。でも同じ見鬼でも、何がどんな風に見えるのかは、差はあるけどね。俺の友だちに、そういうことに詳しい人がいるんだけど、ここに呼んでもいいかな? 雲岩寺でバイトもしてるし、翔太朗とも知り合いなんだ」
断る理由もないので、和樹は「いいよ」といった。
凪砂は「ちょっと連絡してみる」と、携帯端末を手にとった。
そんな凪砂の横顔を見つめながら、和樹は「見鬼」という言葉を心の中で反芻した。
人に見えないものを見てしまうこの体質に、名前があることを初めて知った。そして名前がある事実に安堵していた。それはつまり、自分のような人が少なからず存在するということを意味しているからである。
「毅、覚えてる? 北川毅。今から来る友だちは、俺と毅と同じクラスなんだ」
凪砂は携帯端末に視線を向けたままいった。
「覚えてるよ。毅くんはお兄ちゃんと同じ野球チームだった」
「そうか。じゃあ俺よりも、毅との方が歴史が長いのか」
「そうかも知れない。毅くんは僕のこと、足が速いって褒めてくれたから好きだったな」
翔太朗の弟なら、野球はこれから上手くなる。
野球チームに顔を出すと、みんなそんな言葉をかけてくれた。
翔太朗の周りにいる者は、できないことを「こうすれば上手くなる」と教えてくれる者が多かった。しかしそこに向かうために努力をする自分が想像できなかった。
だからこそ、足が速いことをただ褒めてくれる毅が好きだった。
「足速いのか、いいね」
「でも、それだけだよ。野球はうまくなかったし、楽しいと思えなかった」
凪砂が野球をしないからこそ、和樹は本音をいった。
「うまくできないことを楽しいと思うのは難しいよ。うまくできたとしても、それを楽しいと思えない人もいるわけだし」
そんな言葉をもらったのは初めてだったので、和樹はとてもうれしかった。
それから凪砂は和樹のスケッチブックを見たいといった。
和樹がそれを了承すると、凪砂は「うまいな」なんていいながら、それをめくっていった。
スケッチブックを見つめる凪砂の隣で、和樹はなんだか満たされた気持ちになっていた。
こんな風にありのままの自分を理解してもらえるのは、こんなにもうれしいことなのだと静かに感動していた。
桃色と紫色の雲を見つめながら、和樹は久しぶりに空の色を確認したように思った。
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