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第八章【ほんの一面】凪砂
第八章【ほんの一面】凪砂
時右衛門らしき者が描かれている掛け軸からは、なにか気配がするでもなかった。
さらには朔馬が和紙の人形を発動させても、反応はなかった。
それでも時右衛門と無関係と考えることは難しく、僕たちはその掛け軸の写真を撮らせてもらうことにした。
瀬谷家での確認事項を終えると、僕たちはなんとなく縁側で絵を描く流れになった。
僕と朔馬は高校では書道を選択しているので、絵を描く機会は存在しない。朔馬については、絵を描いたことがあるのかさえ謎である。
「なに描く? 同じもの描いた方が面白いよね」
僕がいうと、和樹は縁側に置かれた竹ざるを指した。
そこには祖母が収穫したであろうトマトがいくつか置かれていた。
「いいね。トマトなら、俺も描ける気がする」
絵を描くのはかなり久しぶりで、白い画用紙に線を引くのが楽しかった。
「絵を描くのって難しいな。全然上手く描けない」
朔馬もそんなことをいいつつも、どこか楽しそうであった。
「動画で見たんだけど。絵を描く時は、見る時間も長い方がいいんだって」
僕も朔馬も「なるほど」と、それを実行した。
僕たちがあまりにも一生懸命にトマトを描いていたせいか、和樹は「これ、絵の具。好きなの使っていいよ」と絵の具を持ってきてくれた。
僕と朔馬は「いいの?」と歓喜の声を上げた。
僕たちの反応が面白かったのか、和樹はいつもより笑顔が多かった。
僕たちの帰り際、和樹は「着物の子は、今のままでいいかな」といった。
「わかった。もし困ったことがあれば、いつでも連絡して。まあ、解決してくれるのは朔馬だけど」
「うん、ありがとう」
和樹は昨日会った時よりも表情が柔らかくなっていたので、僕はなんだか安心した。
僕たちが自転車を押して瀬谷家の門柱の方へ向かうと、和樹の祖母が「なんのお構いもしませんで」と声をかけてくれた。
「三人が縁側で絵を描いているのが、見えたんですけどね。楽しそうで、なんだかうれしかったわ。ぜひまた遊びに来て下さいね」
僕たちは「はい、ぜひ」と答えた。
「そういえば、骨董品は見れました?」
「あ、はい。お侍さんの掛け軸がすごくかっこよかったです」
僕は馬鹿みたいな感想を素直に答えた。
「あの掛け軸は、夫の知人の遺品なんですけど、私も気に入ってるんです」
「遺品?」
「知人というか、友人ですね。骨董品収集を趣味とする仲間という感じでした。その方はお寺の住職だったので、収集した骨董品もすごい数だったそうです。その方が亡くなった際に、ご親族の話し合いで、趣味仲間に譲りましょうって話になったみたいなんです。それでうちの夫にも声をかけて下さったんです。あの掛け軸は異名があって、それなりに人気があったみたいなんですけど。夫は最終的にジャンケンで勝ち取ったんです」
彼女は愉快そうにいった。
「異名ってなに?」
和樹はきいた。
「あだ名みたいなものよ」
「どんな風に呼ばれてたんですか」
僕は聞いた。
「枕返しの親とか、枕返しの幽霊とか、そんな風に呼ばれていたそうですよ」
◇
和樹の祖母にそのお寺の名前を教えてもらったので、僕たちは適当な場所で自転車を停めて、そのお寺の名前を検索してみた。しかし掛け軸についての記載はみつからなかった。
「有名ではないのかな。というか、身内や近所の人が、そう呼んでただけなのかな」
僕はいった。
「そうかも知れない。でも結局は、民間信仰が一番強力だったりするんだよね」
朔馬はそういって、携帯端末をポケットにしまった。
それから僕たちは再び自転車を漕ぎ始めた。
その速度は、先ほどよりも自然と速くなっていた。
時右衛門になにを聞けばいいのかわからないまま、僕たちはただ帰路を急いだ。
「なんで、いないんだ」
帰宅した我が家に時右衛門の姿がなかったので、僕たちは脱力した。
「なんか、起きたらいなくなってた」
事情を知らない波浪は、のん気にいった。
「この家には結界があるし、やっぱり居心地が悪かったのかな」
朔馬はいった。
「和樹のところにはいなかったよね」
「うん、いなかったと思う。すれ違いだったかな。それか西弥生神社にいったのかな。ちょっと様子を見てこようかな」
それから僕たちは西弥生神社へ向かった。
そしてその間、瀬谷家での出来事を波浪に話した。
「眠ってる自覚がない時に予知夢を見たら、タイムリープしたと思うかもね」
波浪はいった。
「そういえば和樹は、それを二回くり返すこともあるっていってたな。だから余計に予知夢だとは思わなかったんだろうね。あれ、これって、朔馬には連携したっけ?」
「初めてきいた」
「あ、ごめん。たまに二回くり返す時があるみたいだよ」
「いや、謝る必要はないけど。枕返しは同じ夢を見せるし、予知夢もくり返すことがあるのかな」
同種の妖怪であれど、同じ個体は存在しない。そのため人間に与える影響も微妙に違ってくるのだろう。そもそも影響を受ける人間側も、感じ方はそれぞれなのかも知れない。
「時右衛門も着物の子も、二人とも枕返しだったりするのかな。時右衛門は人間だったらしいけど」
波浪はいった。
「そういうこともあるかもね」
なにかを知ったつもりになっても、実際はほんの一面を見ただけに過ぎない。妖怪と関わっていくうちに、そんなことを思い知ることが増えたように思う。
僕たちが西弥生神社に到着しても、時右衛門の姿はなかった。
「ここにいないってことは、やっぱり和樹のところに戻ったのかな。もしくは全然別のところにいったのかな」
朔馬はそういって本殿の中を覗いた。
僕も波浪もつられて本殿を覗いたが、そこにはなにもない空間があるばかりだった。
「時右衛門の掛け軸があったお寺なんだけど、もしかしたら理玄なら知ってるかな」
朔馬は思考を切り替えるようにいった。
「理玄は顔も広そうだし、聞いてみる価値はあるかもね」
朔馬は「そうだね」と、理玄に文章を打ち始めた。
それからほどなくぽつぽつと雨が落ちてきたので、帰ろうとしていた僕たちは本殿の屋根に入った。
雨が強くなるにつれて、晴れていた空もあっという間に暗くなっていった。
「これ、長くなるタイプの夕立ちかな」
僕はいった。
「家まで走っちゃう?」
波浪はいった。
「石段で滑ったりしそうじゃない? もうちょっと待とうよ」
実際のところ、僕はいまだに波浪と競走のようなことをするのが嫌だった。勝ち負けを抜きにしても、単純にものすごく嫌なのである。おそらくこれは、僕にしかわからない感覚である。
雨が弱まってきたのを見計らって、僕たちは足早に家へと帰った。
しかし家に着く直前、再び空が暗くなって雨が強まった。
その激しい雨は、一時間ほど降り続いた。
◆
「そういえば、理玄から返信あった?」
本日は僕が洗い物当番なので、流し台から朔馬に声を掛けた。
朔馬と波浪はリビングのソファーで海外ドラマを観ていたが、夕食直後なので二人とも眠そうだった。
「あったよ。お寺の名前は知ってるけど、掛け軸の話は聞いたことないっていってた」
「そうなんだ。理玄も知らないのか」
「でも知り合いの僧侶が近所にいるから、掛け軸のこと聞いてみるって」
「そうなんだ。さすがに顔が広いな」
「時右衛門を連れてきたのは自分だし、気になるからって」
「無害だとしても、気になるよね」
「うん、気になるね」
僕と朔馬がそんな会話をしていると、波浪が突然むくりと上半身を起こした。
そして不思議そうに、僕と朔馬を交互に見つめた。
「どうかした?」
僕はいった。
「二人とも、さっき出掛けなかった?」
波浪はそういって時計を見つめた。
現在午後八時半である。
「出掛けてないよ。ずっとここにいたよ」
朔馬はいった。
「さっき、見送った気がしたんだよね。夢だったのかな」
波浪は納得がいかない感じでいった。
「どんな夢だったの?」
朔馬はきいた。
「凪砂が洗い物が終わってソファーに座ると、和樹から電話が来たの。それで二人が公園に向かう夢だった。その時凪砂は、財布を忘れて出ていった」
波浪はそういって、小さくあくびをした。
「そういえば俺の財布、今どこだろう」
洗い物を終えたので、僕は水道を止めた。
「ソファーの隙間に挟まってるよ」
波浪はいった。
「え、ポケットから落ちたのかな」
僕は手を拭いてソファーに向かった。
波浪のいう通り、僕の薄い財布はソファーの背もたれと座面の間に挟まっていた。
「これは忘れるというか、見つけられないやつだろうね。よかった、今気付いて」
僕が財布を拾い上げた瞬間、ポケットが小さく振動した。
「え。どういうことだ」
その画面には、和樹の名前があった。
「和樹から電話だ」
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