果ての空蝉

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 目の見えぬ天城と幼い永遠を加えた暮らしは大変なものになるのではと心配していたが、まったくそんなことはなかった。  天城は目が見えぬ割に小器用で、どうやっているのか着物の穴や草鞋の解れを直してくれたり、銀衛門が外に出ている間は、お石の面倒を見てくれたりと働きものであった。  永遠は手のかからない赤子だった。泣きもせず、笑いもしない。天城の腕の中で指をしゃぶるか、眠っている。  銀衛門はこの乳も飲まなければ、排せつもしない赤子が異様な事は気づいていたが、あえて知らないふりをしていた。山で暮らしていれば、そういう話の1つや2つは聞く。今のところ害はないのだし、と言い聞かせながら5日ほどの時を共に過ごした。 「帰ったぞ。今日は川でアユが捕れた」  丸々と肥えた耳長の獣を片手に帰れば、ちまちまと着物を縫っていた天城が「おかえり」と顔を上げた。囲炉裏の奥で、お石が永遠と遊んでいる。  銀衛門はその光景を見て、妻が生きていた頃を思い出した。なんだか懐かしいような気持ちがして、自然と眦が緩む。 「魚なんて贅沢品、食べたことがないよ」 「町や村で暮らしているとどうにもな。年貢で全部持ってかれちまう」  誰も銀衛門がここで暮らしていることを知らないし、知らない人間の年貢の取り立てになんか来られやしない。他人の助けは借りられないが、捕ったものを好きなだけ食えるといううま味はあった。 「でも狩りや釣りだけじゃあ生きていけないだろう?」 「獣の皮なんかは取っておいて、月に1度山を下りて遠くの町に売りに行く。そこで必要なものと交換すんのさ。米とか塩とか」 「なるほど」  頷いた天城はアユをどうしたら良いのか考えあぐねているようだった。銀衛門は薄く笑みを浮かべながら、彼の手からアユを浚い、串に差して囲炉裏の灰に突き立てた。見えていない筈の男は感心したような声を出す。 「お石は大人しくしてたかい」 「今日も元気だったよ。池までどじょうを捕まえに」  天城は囲炉裏にかけられた鍋のふたをぱかりと開けて見せる。ぐつぐつと煮えているのは、美味そうなどじょう汁だった。 「うまそうじゃねぇか! やるなあ、お石!」 「蝉の抜け殻もたくさん拾ったの」  永遠を膝の上に乗せたお石は嬉しそうに鼻の穴を膨らます。それから、傍に散らばっていた蝉の抜け殻を銀衛門に見せようとしたのだが、 「あ~!」  ここでお石は重大な事に気が付いた。 「永遠ちゃんが、蝉の抜け殻たべちゃった……」 「なんだって!?」  銀衛門は慌てて永遠を抱き上げた。もぐもぐと唇を動かす赤子の口の端から、虫の足のようなものがちらりと覗いている。 「なんてものを食べてやがる!」  怒号のような大声が出たが、赤子は眠たげな眼で見つめ返して来るばかりである。困り果てて父親の方を見るが、この美しい男は「ははあ、なるほど」と鷹揚に頷くばかり。微塵も心配していない。 「なるほどじゃあねえ。お前さんは見たことがないんだろうが、蝉の抜け殻だぞ? 虫の被ってた皮だ。赤子の口にしていいもんじゃねえぞ」 「大丈夫。その子が食べたのなら――それは果ての空蝉だ」
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