果ての空蝉

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 男は妙なことを言い出した。 「夏の果てに動く蝉の抜け殻があったら、それは『果ての空蝉』と呼ばれる妖なのだという。蝉の幼虫が寝ぼけて出て来たのではない。あくまでその中は空洞だ。この空洞には陰の気が集まりやすい。そうして、果ての空蝉になった彼らは、いつの間にかどこかへ消える」 「夏が終わるといなくなるのは、そういうことだったのね」  銀衛門は半信半疑と言った様子だったが、天城の話はお石の好奇心を十分に刺激したようだった。目をらんらんと輝かせて、天城の膝に乗り上げた少女は「陰の気って?」と小首をかしげている。 「人の悪しき心、病魔、不幸……そういう恐ろしいものの事だよ」  天城は膝の上にやってきた少女の頭を撫でる。 「蝉の抜け殻——空蝉は、現人(うつしおみ)が語源だ。どこか空虚で儚いもの。それがこの世であり、この世を生きる人である。陰の気配を内包するのは当然だ」 「ふうん?」  少女はわかっていないような返事をした。 「ビョーマはヤマイのことよね。おっかさんが死んでしまった時も、はてのうつせみはいたのかしら」 「うん?」  今度は天城が首を傾げる番だった。ちらりと銀衛門に視線を向けると、彼は片手で永遠を抱いたままアユの焼き加減を調節している。 「去年の夏にな。流行り病でぽっくりよ」  気丈に振舞ってはいるが、その声色は重い。手招きして暗い顔のお石を呼び寄せると、椀にどじょう汁をよそってやった。すると少女はどじょう汁に夢中になる。 「俺はもともと集落に住むマタギの1人だった。そこで出会って一緒になったのさ」 「何故わざわざ集落を出たんだい?」 「……流行り病と言ったろう? 人に移る病を抱えて集落では暮らせんよ」  ずずず、と椀の中の汁をすする。 「俺も聞いていいか」  銀衛門は天城が頷くのを見てから、永遠を見て 「この子は実子か?」  と尋ねた。  天城の表情は変わらない。表情を変えぬまま、銀衛門から永遠を受け取って抱き直す。 「いや、永遠は私の実子ではない。寺の軒下に捨てられているのを拾ったのだ」 「へえ、盲目の身で子育ては大変だったろう」 「永遠はそういう意味では手のかからない子だったし、その頃はお師匠がいたからね。そこまで大変だった覚えはない」 「お師匠?」 「三味線のお師匠様さ」 「ああ」  銀衛門は相槌を返したが、なんとも縁遠い話だった。目の前の男は今でこそ旅の僧を嘯く男だが、もとの生まれはもっと違ったのかもしれない。  銀衛門はもはやこの赤子が人ではないと確信していた。乳も粥も欲しがらない癖に、蝉の抜け殻は食いやがる。とんでもない悪食の物の怪なのだと。 「銀衛門」  その心を見透かしたような声が差す。 「私たちは明日、ここを出るよ」 「随分と急だな。もっと居れば良いのに」 「もののけを連れているのに、引き留めるのかい?」  銀衛門は焼き上がったアユを手に取り、天城の方を見ないようにしながら「別に構わんさ」と頷いた。 「……お兄ちゃん、いなくなっちゃうの?」  銀衛門の膝の上でお石が泣きそうな声をあげた。 「もっと一緒にいたいわ。このまま、ここで暮らせば良いのに」  まぎれもなく本心からの言葉であった。やはり、この人気のない山間に父親と2人きりという暮らしは、少女にとっては寂しいものだったのだろう。  しかしながら天城は薄く笑みを浮かべたまま、 「もうすっかり足は良くなったし。大寺な用事もあるしね」  そう言って言葉を翻すことはなかった。もう決めたことなのだろう。 「……仕方ない、な」  銀衛門は残念そうに言った。  ――そう、仕方がない。
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