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その夜の事だ。
たらふく食べて床に入ると、すぐに寝息が聞こえ始めた。そうして全員が寝静まったのを確認してから、のそりと起き上がる影がある。——銀衛門だ。
入口に近い場所に寝転がる影に忍び寄ると、鼻の前に手を伸ばし、ちゃんと眠っているかを確認する。浅くて長い呼吸を感じて安堵すると、懐に忍ばせた脇差を抜いた。
「夜這いかい?」
そこへ天城の声が響く。咄嗟に脇差を背に隠したが、そうだ、この男は目が見えないのであった。
「……起きてたのか」
「いや、寝ていたよ。……私は目は利かないが、鼻だとか耳だとかはすごく良い。鼻面にこられたら、さすがに匂いで起きてしまうよ」
「そんなに臭ったか?」
「ああ――血の匂いがする」
その瞬間、銀次郎の手の中にあった白銀が閃いた。己の胸を貫かんと突き出されたそれを、天城は身を捩って躱す。がつん、と床を叩く音だけが山小屋に響いた。
天城は懐に赤子を抱えたまま、すぐ横に立てかけてあった三味線を引き寄せた。袋から取り出された三味線を、銀衛門は間抜けだと笑う。そんなもので何ができるというのだろうか。
「私がここに来た理由を話していなかったね」
落ち着きを払った声で天城は言った。
「数か月前から、隣山の集落の人間が行方不明になる事件が起きている。知っているだろう? この山にある集落を訪れようとした人間が戻ってきていないそうだから。……ここは人里離れた山奥だが、もともと誰も住んでいないわけではなかった筈だ。貴方は集落を出たんじゃない。――貴方以外の人は一体どこに消えた?」
天城と対峙する男の目は暗い。
「それを知ってどうする?」
「始末をつける」
その言葉を聞くや、銀衛門は脇差しを振りかぶって襲いかかった。振り下ろされる刃を、天城は後ろに跳んで避ける。刃は盾にするように前に構えられた三味線を掠め、その弦を裁つ。
ビンッ
弦の切れる不快な音が響く。その刹那、気づけば、銀衛門の胸は斜めに切り裂かれていた。
「な……に……?」
ぱたぱたと血がしたたり落ちる。その先にあったのは、先ほどまで三味線の棹に納められていた刃だった。目に見えぬ程に素早い剣撃を放った天城は、平然とした顔で刃を振って、血と油を払い落した。
仕込み刀だったのか、銀衛門は奥歯を噛む。
「おとっつあん……?」
そこへあどけない声が響いた。
部屋の奥で眠っていたはずのお石が起きていた。くしくしと眠たげに目をこすりながら立ち上がる。
「まだ、動いてるの。其れ」
途端、少女の背が割れた。
小さなお石の背から、巨大内蝉の足のようなものが6本突き出している。可愛らしかったどんぐり眼は大きく見開かれ、飛び出そうなほどだ。
「わ、わわあワタシ、うごかないほうが、すきぃ」
がくがくと少女の顎が外れそうな程に大きく開閉する。そこから飛び出す声は濁っていて、あどけない娘の声とは思えない。まるで、お石の皮を被った何者かが、彼女の身体を操っているように見える。
天城は山小屋を飛び出した。障害物は少ない方が良かった。外へ飛び出した天城を、異形の娘が追いかけてくる。
――まるで、蝉の抜け殻だ。
天城は先刻、彼女に語ったあやかしの事を思い出した。夏の終わりに現れる、空しくも悍ましい『果ての空蝉』。
だが、奇怪なだけの生き物など、敵ではない。もとより、この異形の悍ましさを目で感じることはないのだから。
襲いくる虫の足を避けながら切って回る。早すぎる刀裁きに、空蝉はついて来られない。あっという間に6本の足すべてを切り落とされた化け物は、茫然とした少女の顔で、天城を見上げた。
そのあどけない血染めの首めがけて白刃が振り下ろされる。
「やめろ!」
血煙の舞う中、銀衛門の叫び声が響いた。
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