果ての空蝉

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 銀衛門は険しい山々を根城にするマタギ集団の1人であった。  美しくて優しい妻との間に、愛らしい娘に恵まれ、穏やかに暮らしていた。集落にいるどの男にも靡かなかった女が自分の妻であることは、銀衛門ひそかな自慢でもあった。  ところが、妻は流行り病にかかりあっけなく死んでしまった。悲劇はそれで収まらず、共に暮らしていた娘のお石までもその病にかかり、死の淵を彷徨うことになってしまった。  窶れた娘の横たわる布団の傍らに座り込む。もう何日もまともなものを食べていなかった。家の戸は外から塞がれ、出れないようにされていたからだ。  このまま家ごと遺体を燃やすのだという。まだ生きている銀衛門とお石もろとも。  人から人へ移る病だった。  集落の人間が銀衛門たち家族を隔離するのは当然のことだっただろう。集落には妊婦も赤子もいる。仕方ない事だと、わかっていた。わかっていたのだが、お石が「死にたくない」と泣いた時、銀衛門のなかにある大事なものが根こそぎ奪われてしまったのだ。  気が付けば、集落の人間はすべて死に絶えていた。血にまみれた手斧を右手にぶら下げた銀衛門が家に帰ると、そこには死体にかぶりつくお石の姿があった。 「おとっつあん、これ、おいしいよ」  死の淵を彷徨ったためか、父の凶行を目の当たりにしたためか、すっかり人ではない何かに変貌してしまった娘を前に、銀衛門は茫然とするほかなかった。ただ、胸中に残ったことと言えば、  ――この子が生きているなら、いいだろう。  それだけであった。 「やめろ!」  手を伸ばす銀衛門の前で娘の首が飛ぶ。その首が落ちる様を眺めていた男は、はっと我に返ったように、脇差を両手で握って娘を殺した男に向かって走り出した。  その切っ先が届くより前に、天城の刃が男の喉を掻き切った。血が噴き出し、力なく膝をつく。 「……娘が人でなくなったのはわかっていた。娘の姿をした怪物なのだと。わかっていたが、それでも生きていてほしかったのだ」  呻くような小さな告解が男の口から毀れた。 「お前もそうなのだろう。同じ筈だ。でなければ、その子を養えるわけがない。同じことをしているのに、俺の娘を殺すのか」 「——永遠は人を食べないよ」  天城は冷たく言った。 「この子が食べるのは怪異や妖、彼岸者とかいう人でなしだけさ。そういう風に育てた。私はこの子のために戦うし、必要であれば人も殺すが、誓ってこの子を人食いの化物などにはしない」  振り上げられた刀が、なおも脇差を握りなおそうとする男の頭を割った。 「人を食った娘も、人を殺した親も、行く先は同じだろう。——彼岸の先で、また会える」  血にまみれた彼岸狩は、腕の中の赤子をそっと撫でる。  その背中は少しだけ寂し気であった。
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