番外編 金木犀の夜に

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番外編 金木犀の夜に

 その夜は空気の中にあまーい香りが混じっていて、なんだかとても気持ちいいな、と猫の姿のミウは思ったのだ。  青白い満月の下で海斗の部屋の窓からその香りを嗅いでいたら、頭がふわふわしてきた。  あ、この感じ、身体が変わる時の感覚と似てる。  海斗の前で変身しちゃったらマズイ!急いでこの部屋から出なきゃ。  そう思ってとにかく、ミウは夢中で窓の外に飛び降りた。 「どこ行くんだ、ミウ!」  後ろから海斗の声が追いかけてきたけど、立ち止まっている余裕はミウにはなかった。  身体が引っ張られるような感覚を一瞬味わった後、ミウはいつものグレーのセーラー服の美雨の姿になっていた。  でもなんだかクラクラして起きていられず、地面に倒れ込む。  そして庭の金木犀の木の下で、美雨は力尽きて寝てしまったのだ。  海斗の声が意識の向こう側で聞こえた気がした--。 「ミウー!」  海斗はミウが飛び出して行った窓を大きく開けて、飼い猫の名前を呼ぶ。  返事はなく、代わりに秋の風が鼻先をかすめていった。  その風の中に甘い香りが満ちている。  出どころは庭の金木犀だ。  その金木犀の木の下に、何かかたまりがある。満月に照らされて浮かび上がったそれは、どうやら人間のようだ。  海斗はぎょっとして目を凝らす。  あのセーラー服は、見間違いようがない。   山中美雨だ。  なんでこんなところに?  急いで階下に降り、スニーカーをつっかけて玄関から庭に出る。  金木犀の木の下で寝ているみたいに横たわる美雨を、月の光が青く照らしていた。  「おい、山中美雨!」  声をかけてもピクリともしない。  思わず頬に触れてみると、温かい。  よかった、とりあえず生きてる。  海斗は美雨の上半身を抱えて起こし、名前を呼びながら頬を軽く叩いてみる。  「んん……」  美雨の眉根が軽く寄せられて、声が漏れた。  意識が戻ってきたようだ。  「お、き、ろ」  耳元で言ってやる。  すると、美雨の目がぱっちりと開いた。  「うわっ」  海斗が思わず声を出すと、美雨はとろん、と笑った。  「海斗だぁ。なんでここにいるのぉ?」  「それはこっちのセリフだ!」  なんだか酔っぱらっているような…。  「おまえ、酒でも飲んだ?」  「飲んでないよぅ。このお花がいい匂いだなぁってくんくんしてたら、だんだん気持ちがよくなってきて…」  気がついたら眠っていた、と言うわけらしい。  猫にマタタビってあるけど、美雨にキンモクセイ?  金木犀で酔っぱらうなんて話は聞いたことがない。  でも今日の美雨はいつものどこか緊張した感じがなくて、リラックスしている。  なんというか、ふわっとしていて妙にかわいいのだ。  海斗はそんなことを思ってしまった自分が恥ずかしくなり、ついつっけんどんに言う。  「こんな時間にうろつくなよ、危ないだろ。家まで送るから、早く立て」  腕の中の美雨は、じっとこちらを見上げている。  「……もう少しここにいたいなぁ」  美雨の目に、月の光が映って揺れていた。  そのまま見つめていたらなぜだか逆らえなくなりそうで、海斗は目を逸らした。  「どうぞ、ご自由に」  なんだか息が苦しい気がする。  「そういえば、うちの猫、見なかったか?さっきまで窓辺にいたんだけど…」   しゃべっていないと間がもたない気がして、口を開いた。  美雨はものすごく、にっこり笑った。  「お散歩に行ったよ。あっちのほう」  月の方向を指さす。  こりゃあてにならん、と海斗は美雨から有効な情報を引き出すことを諦める。  まぁ、猫のミウはそのうち帰るだろう。  問題はこのお嬢さんだ。  こんな酔っぱらいみたいな状態で一人で歩かせるわけにはいかないし、かと言って庭先に置いとくのも、海斗の父親が帰ってきたりしたら面倒なことになりそうだし。  海斗が迷っていたその時、視界の端に動くものがあった。  なんだか嫌な予感がした。  門の前に、が立っていた。  ゆらりと揺れて、近づいてくる。  ミウが来てからというもの、たまに見えるようになった、のようだ。  そう、兄の陸斗の幽霊のように。  海斗はうとうとしている美雨をそっと横たえて、背中に隠した。  美雨はいい気なもので、そのまますやすやと寝てしまっている。  と、女の影が言った。  「その子猫をくれる…?」  女の影は、美雨を指差してなぜか「子猫」と言った。  女は灰色っぽい着物を着ていて、頭に猫のような耳が生えている。  目は緑色で口の端がキュッと上がっていて、まるで化け猫っぽい。  これは面倒なことになりそうだな、と海斗は思った。 「これは子猫じゃない、人間だ。だから渡せないよ」 「そんなはずはない、子猫よ。緑の眼の、私のきれいな子猫じゃない」  やっぱりこの女には、美雨が猫に見えているみたいだ。  緑の眼の、ってそれじゃミウじゃないか。  でも、もしここにいるのがミウだとしても渡せないな、と海斗は思った。 「猫でも人間でも、渡すわけにはいかない」  はっきりそう言うと、女の影は悲しげな顔になり、身体全体が青く燃えるように光り始めた。 「じゃあ、私の子猫はどこに行ったの……?」  次の瞬間、見る間に恐ろしげな顔つきになる。  まずい、怒らせたようだ。  一人ならなんとでもなるが、今は背後の美雨をどうにかして守らないといけない。  影は光りながら近づいてきて、美雨をつかもうと手を伸ばしてきた。  海斗は咄嗟に、美雨に自分の上着を被せて隠し、左腕でその手をさえぎる。  女の手が海斗の腕をつかんだ。  瞬間、焼けるように熱いと海斗は思ったけど、そうではなかった。  青く燃えるような光を放つ女の手は、ドライアイスに触れたように火傷するほど冷たいのだ。  海斗は声を出さないように歯を食いしばって、女の腕を振り払おうと力を込める。  「その子を渡しなさい」  鬼の形相で女が迫ってくる。 「渡せない」 「私の、緑の目の、かわいい子猫を返して……!人間が私から奪ったあの子を……!」  緑の眼って、やっぱりミウのことか?  この女の影は、人の姿をしているけど美雨の母猫なのか? いや、そうじゃないかもしれないけど--。 「その子猫は僕が拾った。拾った時は青い目だったけど、しばらくしたらおまえのような緑の目になったよ」 「拾った…?」 「雨に濡れて鳴いていたから、僕が連れて帰った。だから大丈夫だ。元気にしているよ」  時々いなくなったりするけど、とは言わないでおいた。 「ウソだ、人間は残酷だ。自分の都合で可愛がってみたり、飽きたり困ったりしたら簡単に捨てたりする!私の子猫を取り上げて捨てた人間を、許すものか……!」  女の影は一層青く燃え上がる。  母猫は人間に飼われていて、産んだばかりの子猫を飼い主によって引き離され、捨てられたのだろうか。  人間の姿、というか化け猫の姿になってこうしてその子猫を探していたのか。 「確かにそういう人間もいるかも知れない。だけど、そんな人間ばかりじゃないよ。弱くて小さな存在に、何故かこっちの方が救われていたりする人間もいるんだ。僕にはミウが必要だ。だから連れて行かせるわけにはいかない!」  最後の方はいつのまにか叫んでいた。  ーーと、海斗を掴んでいた女の手から段々と力が抜け、するりと落ちる。  掴まれていた部分が火傷のようにヒリヒリした。 「本当か…?私の子猫は今、幸せなのか?」  海斗は女の影をまっすぐ見て、声に力を込めた。 「不幸ではない、はずだ」 「お前のような人間もいるのか……」  そう言うと女の姿をしていたその影は、ゆっくりと後ずさりするように離れていき、門のあたりで一瞬光ってから、地面に吸い込まれるようにして消えた。   地面かと思っていた暗闇に、一匹の猫がいた。  ミウによく似た灰色の猫は、その緑色の眼で一瞬海斗を見つめたあと、走って暗闇に消えていった。  子猫のことをよろしく、と言いたかったのだろうと海斗は勝手に解釈した。  ミウの母猫は、もう生きていないのだろうか。  それとも生きていて、子猫のことが心配だったのだろうか。  どちらにしても--  「大事にするよ」  海斗は猫が去っていった暗闇に向かって、呟いた。  ミウさえ良ければ、だけどね。  --さて、酔っ払い娘を家まで送らないと。  そう思って振り返った海斗は、呆気に取られる。  横たえておいた美雨は影も形も無く、上にかけた海斗の上着だけが地面に残されていたからだ。 「あの恩知らず娘……」  あんな酔っ払いみたいな状態でどこに行ったんだ?  が醒めて帰ったのなら、まぁいいのだけど。  ため息を吐くと、海斗の鼻先に金木犀の香りを乗せた風が吹いた。  満月はいつの間にか雲に隠れて、風が肌の表面を冷やしていった。  あの母猫はなぜか人間の美雨のことを自分の子猫だと思ったようだけど、どうしてだろう?  海斗がぼんやり考えていると、ニャオ、と鳴き声がした。  見上げると、海斗の部屋の窓からミウが顔を出していた。  「なんだ、ミウ、帰ってたのか」  ニャオ、とミウが答えた。  「自称・お前の母猫に会ったよ」  ミウは首を傾げた。  海斗は家の中に入り、階段を上りながら考える。  ミウをあの母猫に会わせればよかったのだろうか?  なぜ、その可能性を微塵も考えなかったのだろう。  母猫に会わせてやるほうが仔猫にとっては幸せだったのではないか?  部屋のドアを開けると、ミウが窓辺から飛び降りて海斗の足に擦り寄ってきた。  そのしなやかな身体を抱き上げる。  ふわふわした毛に鼻を埋め、干したての布団みたいな匂いをかぐ。 「僕にとって、お前が必要なんだな」  海斗は呟いて、一人で少し笑った。  ミウはニャア?と首を傾げるように鳴く。 「ミウ、お前、幸せか?」  海斗はミウのそのきれいな翠色の眼を間近で見ながら問いかける。  もちろんミウの答えは決まっている。  「ニャア」  目を細めた満足げな表情をしているミウ。  海斗はそれを肯定と受け止めることにした。  「僕に、お前が必要なんだ」  海斗はもう一度呟いた。  翌朝、ミウはいつものように朝日を浴びて人間になるため、山中神社に行った。  この境内なら人に見られることなく変身できるので、夜明けと日没はここで過ごすようにしている。  その朝、ミウはなんだか腑に落ちなかった。  昨夜の記憶がないのだ。  なんだか、満月を見ていたら金木犀の香りがしてきて、その後身体に異変を感じたような……?  「ねぇ、神様?」  ミウは神社の神様に呼びかける。  最近はもう、神様はわざわざミウの意識を奪わなくても会話してくれるようになっていた。  『……なんだね、ミウよ』  少ししてから、返事がある。 「満月って、あたしみたいな猫に何か影響あったりします?例えば狼男が狼に変身しちゃう、みたいな感じで。……昨日、満月を見ながら金木犀の香りを嗅いだら、急に身体がおかしな感じになって……」 『なんとも言えないが…満月は朝日を浴びるのに近い効果がある。その上、金木犀とか沈丁花、クチナシやジャスミンとかじゃな、香りの強い花に酔っ払うことがあるかも知れんな。それで身体が勘違いして反応したりすることが……って、昨晩お前さんは変身したのかな?」 「それが記憶があいまいで……。でもわかりました。金木犀と、沈丁花と、えーっと」 『ジャスミンとクチナシ』 「そう、それ!……と満月の夜には気をつけるってことですね」 『いかにも』  そんな会話をした。       *  海斗が教室に入ってきて美雨の隣に座るなり、開口一番言った。  「よう、酔っぱらい」  「え……」  やっぱり美雨は何かしてしまったらしい。  でも慌てた美雨がどんなに聞いても、その夜のことを海斗は全く教えてくれなかったのだ。  ー完ー
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