おばけはちみつのグリセルダ

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ジュリコ(3) 「…けど、あんた。その―― 一緒に住んでる母さんっていうのは、何時に戻って来たりするわけ?」  なんの気なしに、ジュリコがきいた。ベッドにもたれて、楽な姿勢でスマホを指でもてあそびながら。 「…ねえ、ってば。いま、あたしが言ったの、聞こえたの?」  返事がないので、ジュリコがちらりと視線を向ける。  うん…。聞こえたよ、と。小声で答えるグリセルダ。  帰ってくるのは、たぶん、明日の夜だと思う。 「思う? それって何? なんでそんなに、アバウトなのよ?」 「母さんはいつも―― 予定、いつも、がばがばだから。明日って言っておいて、明日に帰ってこないこともある。まあでも。たぶん、明日の夜、だと思うよ。本人が、今度はぜったい帰れるからね、って。自分で昨日、言ってたし」  ピクシブの新着マンガのトップページをひととおり眺めながら。グリセルダが、少しなんだか不明瞭につぶやいた。視線はずっと、タブレットの上に落としたままで。 「何やってんの、あなたの母さん?」 「…刑務所の、夜勤の見張り、みたいな。たぶんそういう仕事だと思う」 「嘘ッ。それって何、看守ってやつ? あるいはあれ? 何、刑務官―― とかっていう?」 「…たぶん。まあでも、わたしも正直、よくわかってないし。母さん、あんまり自分で仕事の話、したがらないから」 「…そっかそっか。まあでも、あれね。あんたの家も―― いろいろちょっと、フクザツそうね」  なんだか真面目な思案顔で、ジュリコがそんな感想をつぶやいた。でも。その二人の会話は、それで終わった。そのあとはもう、ジュリコはとくに、グリセルダの家族のことを訊いたり詮索しなかった。グリセルダの方では―― ジュリコの言った最後の言葉が。ほんの少し、心の隅に引っかかった。『あんたの家も』と、ジュリコは言った。それはつまり―― ジュリコの家も、何か、問題があったり、フクザツだったりするのだろうか…?  心の隅では思ったけれど。でも、グリセルダは、その晩、それ以上、ジュリコのことを訊くこともなかったし。ジュリコの側でも、特に説明することもなかった。  翌朝、早朝。薄い朝霧の漂う木立を抜けて、グリセルダとジュリコは、まだ人通りのない、ノパルの畑に囲まれた村はずれの道を無言で歩いた。ときどき山の畑に出かける農家のカミオネッタ(小型トラック)が、深いエンジンの音を響かせながら二人の横を通り過ぎていく。  急な坂を下りきると、低くなった道路は夜の間の雨でできた大きな水たまりで道路が遮られている。雨季には毎年いつもここに現れるこの大きな水たまりは、地元では冗談めかして「大ベドレガル湖」とも呼ばれている。早起きのツバメたちが、茶色く濁った水の上を行ったり来たりしている。水を飲みたいのか、水辺に集まる虫をねらっているのか。グリセルダには、今ひとつその、鳥たちの狙いがよくわからない。  水たまりを迂回して向こう側に渡ったところに、「デメの店」と地元で呼ばれる食品雑貨店が建っている。早朝のこの時間、村で開いているのはこの店だけだ。店主のデメさん(50代くらいの、いつも眠たそうな目をしたおばさん)は、無口で、売り買いに必要な言葉以外はいっさい話さない。あまり村の誰とも会いたくないし、特に話もしたくないグリセルダは、いつも早朝のこの時間、こっそりひとりでここまで買い物にくる。  グリセルダはボトル入りのレッドコーラを1つ買い、ジュリコはインスタントのバニラ入りカプチーノのカップを買って、その場でデメさんにお湯を注いでもらい、店の脇の石の上で美味しそうに飲み始めた。グリセルダも、隣に座ってゆっくり黙ってコーラを飲んだ。2匹の茶色の犬たちがやってきて、何かないかと二人の足元をかぎまわる。なにもないわよ、あっち行きな、しっしっ!とジュリコが手をひらひらふると、犬たちはあきらめて水たまりの向こうの畑の方にそろってかけていく。 「じゃ行くわ、わたし」  ジュリコが言って立ち上がる。空の紙カップを、店の前のゴミ箱の中に器用に投げ入れた。 「戻るの、本町に?」  グリセルダがわずかに顔を上げ、ジュリコを見上げて言葉を投げた。 「まあね。ちょっとなんだか、眠いし。いったん家に戻って、ぐっすり寝るわ。なんだか昨夜は、あんたのところでお世話になったわね」 「…お世話、とか。別に。何もしてないし。」  グリセルダはわずかに肩をすくめた。じっさいふたりでカーペットの上にねそべって、スマホやタブレットでだらだらと何かを見ていただけだ。まあでも。なんだか妙に、くつろいだ良い時間だったようにも今は思える。けっきょく夜明けまで、二人は一睡もしなかった。 「たぶん、そろそろ、始発のコンビ(乗り合いマイクロバス)が通ると思うし。じゃなくても、国道に出れば、モトタクシーの1台くらいはつかまえられると思うから」  ジュリコは言って、黒のジャケットのフードを上げて頭にかぶった。かぶると、長いつやつやしたオレンジの髪がぜんぶ隠れて見えなくなった。  そう、とグリセルダは気のない返事を返しただけだ。何だか思いがけない形だったけど。誰かと2人で夜明かししたのは久しぶりだ。その時間がいま、終わると思うとちょっぴりなんだか、心に隙間が空いた気がする。この気持ちは知っている。この気持ちには名前がある。自分はいま、「寂しがっている」のだと。グリセルダは自分で自覚してしまい、そんな自分がほんのちょっぴり嫌になる。 「ねえ、グリセルダ?」  通りの向こうでふりかえり、ジュリコが声を投げてきた。 「何…?」 「またたまに、遊びに来てもいい? 夜とか。なんか、やることないとき?」 「…いいよ。別に。それは。」 「そっか。よかった。じゃ、またね!」  にっこり笑って、ジュリコがばいばいと大きく左右に手をふった。  ばいばい、と。座ったままで、グリセルダは小さく手を振り返す。
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