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曇りの朝 (7月16日)
けっきょく朝まで、ジュリコはそこに座ったままで夜を明かした。
雨の夜が終わり、雨音が弱まって、わずかに朝の光がさしこみ始めたそこで―― 座ったままで眠るジュリコ。こっそり毛布を持って、ジュリコの肩にかけようかと近づいたグリセルダは―― ひどく濡れてぐちゃぐちゃの髪の、ジュリコの頬に―― 青黒い、ひどいあざがあるのを見る。誰かにひどく殴りつけられたとか―― たぶん、そういうタイプの傷に見えた。あざのない側の頬には、幾筋もの涙の痕がある。グリセルダは、思わずそこから目をそらす。見てはいけない何かを見た気がした。少し居心地が悪くなる。グリセルダはけっきょく、毛布はやっぱりかけないで―― なるだけ音をたてないように、ふたたびもとの、自分の寝場所に戻っていった。朝の鳥たちが鳴きはじめた。
6時を少し回ったころ、ジュリコがしずかに目を覚ます。
「ねえ、ちょっと。グリセルダ、起きてる?」
「…何?」
「あのさ。悪いんだけど。ちょっとシャワーだけ、使わしてもらえないかな? あとできたら、ドライヤーも借りたい。ここってシャワー、出るんでしょ?」
「うん、出るよ… それは別に、使ってかまわないけど――」
「ねえ、グリセルダ?」
バスルームからジュリコが呼ぶ。
「何?」
「ねえ。悪いんだけど。ちょっと服も、借りていいかな? さすがに濡れすぎて、すぐには乾かなさそうだから。古着みたいな、シンプルなやつでも何でもかまわない。あとでちゃんと、洗って返す」
「うん。それはぜんぜん、かまわないけど――」
ジュリコは奥の壁のハンガーラックから、ふだんあまり着ない大きめのスポーツトレーナーとスエットパンツを選んでバスルームに持っていく。
「ここ。ドアの前。置いとくね?」
そう言ってそこの床の上に服を置く。
「ねえグリセルダ、」
ダークグリーンのスポーツトレーナーに身を包み、さっぱりと髪を整えて家を出ていくジュリコが、ドアの外でふりかえる。
「このこと、誰にも、言わないでよね。とくに―― ホセマリアのバカと、イサベラには」
痛々しいほどに目立つ頬のあざに片手を当てて。きまり悪そうにジュリコが視線をはずす。
「うん。大丈夫。言わないし。特に、どうしたとかも訊かない。それぞれ、いろいろ、あるってことで。お互いに、ね。」
グリセルダが言って、今朝2本目のボトルヨーグルトを口にくわえた。
「…ありがと。ちょっぴり借りができたね、あんたには」
「借りとか。いいし」
ちょっぴり照れて視線をはずしたグリセルダ。タコス売りのバイカーが、景気のいいクラクションをかきならしながら前の路地を走りぬけていく。ノパル畑にくりだすカミオネッタたちが、何台も続けて過ぎていく。雨あがりの、曇りの朝だ。空気は湿って、少し甘い土の匂いがした。
そのあと何日も、ジュリコはおばけはちみつの隠れ家に、まったく一度も来なかった。その理由は、ジュリコだけしか知らないことだ。
その後、ふたたびジュリコは元気におばけはちみつの森に来た。まるで何ごともなかったように。いくつも冗談をふりまいて、ホセマリアをからかったりもして。でも。その、左の頬には、まだあの夜のあざのあとが薄く消えずに残っていた。それ、どうしたの?というイサベラの問いには、「ちょっと家のテラスで転んだのよ。まったく、我ながらどんくさいことだったわ」といってなんでもないように笑った。
そんな彼女を横目に見ながら、グリセルダは―― いろいろたぶん、どこでも、人生はそれほど簡単じゃないよね、と。なんだか大人めいた漠然とした感想を持ったのだが。特にそれを、他の誰かに言うことはなかった。グリセルダはタブレットをオンにして―― また新しい、女の子の横顔イラストの基礎アウトラインに取りかかる。
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