おばけはちみつのグリセルダ

5/70
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/70ページ
イサベラ  (6月4日) 「ねえあなた、サルサモラ買わない?」  不意に声をかけられて、グリセルダは―― グレイの髪の少女は、読んでいた雑誌から顔を上げる。古い木の根元のこぶの上。ちょうど人ひとり座れるくらいの木のこぶ。グリセルダはよくここに腰かけて、木洩れ日の下、木の幹にもたれてスマホのイラストや何度も読み古したマンガ雑誌をひとりで見ている。  グリセルダの視線の向こうに、小柄なひとりの女の子が、人なつっこい笑顔をうかべてこちらの方をうかがっている。頭の後ろの左右にきっちりとした2本の三つ編みをつくってしっかり髪をまとめている。歳はたぶん―― 11歳とか、そのくらいだろうとグリセルダは考える。 「ねえ、サルサモラ買わない?」  同じ言葉をもういちど繰り返し、少女が体の左側に下げたカゴの中身を指さした。 「…いくらなの?」  あまり感情のこもらない声で、グリセルダがきいた。 「30ペソよ。この缶に1杯。どう? 買わない?」  少女は空になったサルディーナ(ニシン)の缶を取り上げて、木洩れ日の中で振ってみせた。 「…ごめん。やっぱ、いい。今ちょっと、あまりお金ないから」  グリセルダは言って、少し申し訳なさそうにそっと肩をすくめた。  じっさいいま言ったことは本当だ。今現在の持ち合わせは80ペソ。これが今日一日の―― 明日の朝、母親が帰ってくるまでの全予算だ。そして母親は、しばしば、約束どおりに帰ってこない。最悪、これで明日も1日のりきらないといけない、かもしれない。今ここで30ペソを失う余裕はグリセルダにはない。 「そっか。じゃ、また今度、お金あるときに買ってね!」  まるで商談が成立したときのような、きれいな笑顔で少女がわずかに首をかたむけた。それから無邪気に問いかける。 「ねえ、ところであなた、何て名前?」 「グリセルダ… だけど…」  ちらりと雑誌から目を上げて、グリセルダが小声で答えを返した。 「グリセルダ。ん。覚えた。」少女が、あくまで笑顔を絶やさず復唱する。「ねえねえ。あなたって、ほんとに、おばけはちみつに住んでいるのよね?」 「…おばけはちみつ、か。…そうね―― ここってそういう名前で、呼ばれているん、だっけ――」 「わたしはイサベラ。ここの近くに住んでるの。よろしくね!」 「…よろしく。…っていうか、あなた学校とかは、いいの――?」  自分自身が学校とは無縁の毎日を送っていながらに―― うっかりグリセルダはきいてしまった。午後をむかえるこの時間。ふつうはだいたい、子供たちは学校の教室で勉強している時間帯だ。 「うちは、ほら。貧乏だから」  あははは、と。ほがらかに笑ってイサベラがふりかえる。 「これを全部売り切ったら、戻って、弟の世話とか。おむつ洗ったりとか。わたしが全部しないとダメだし。学校とかは、行く時間ないのよ」  まるで「あそこの山に綺麗な虹が立ったわよ」とでもいうように、あくまで快活に笑顔で話すものだから。それが特に不幸なことだとか、気の毒だとかいう感じには少しも響いてこなかった。それにしても、とグリセルダは考える。よく笑う子だ、この子。どうやらこのイサベラという少女の顔からは、笑顔が消える時間が―― ほとんどまったく、ないらしい。  イサベラはもういちどグリセルダに向けて手をふって、厚く積もった落ち葉の上をサクサク踏んで木々の向こうに遠ざかる。その小柄な姿が森に消えると、あたりが急に静かになった―― ような気がした。カタカタカタと枯れ木をつつくキツツキの音だけが、どこか遠くで響いている。ひらひらと白い蝶が二匹、追いかけっこをするように無音で木洩れ日の森を待っている。グリセルダは片手を口にあてて大きくひとつあくびをし、それからまた、木の幹にもたれて、マンガ雑誌の紙面の世界にひとり戻っていく。
/70ページ

最初のコメントを投稿しよう!