2.僕が好きな人は、彼女の好きな人

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 この学校で働こうと決心したのは、実際にこの小学校に訪れた時だった。小学校の駐車場に車を停めて、ドアをあけた瞬間のことは忘れない。  はっとするほど新鮮な朝の空気は、作りたてみたいに清らかだった。四方を囲む山はしっとりとした深い静寂に包まれていて。 「空気がおいしいですよね、空も広いし。僕もこんな小学校に通いたかったなって、初めて来た時思いました」  千秋が不満げに口をはさむ。 「空気ねえ、たしかに街中より気温が2度は低いよね」 「雪の日なんか大変ですよね、路面凍って」 「そうそう。毎年スタッドレスタイヤに履き変えなきゃいけないしさぁ、しかも自腹で」  女性陣の盛り上がっている会話に、ニコは適度にあいづちを打った。笹原はさっきから冷えきった枝豆をさやから出して、口に運ぶのに忙しいみたいだった。豆が好きなんだろうか。話の中心は千秋達なのに、笹原先生の方ばかりに神経が集中してしまう。 「まあたしかに、空気は澄んでるね」 「は……はい」  笹原のこぼした一言に、急に酔いがまわったように鼓動が速まる。 「ニコはこの辺が地元なの? 小学校はどこだった?」  千秋に話を振られ一瞬戸惑ったが、出身小学校を正直に告げた。案の定、千秋は食いついた。笹原が前に赴任していた小学校と同じだと言って。 「じゃあ笹原先生のこと知ってるの!?」 「いえ、いませんでした……その頃は」 「ニコが小学生の頃は、さすがにまだ笹原先生は大学生か」 「そうですよ、千秋先生。僕をいくつだと思ってるの」 「だって、面白そうじゃないですか。先生の新人時代を知ってたら」 「確かに笹原先生が焦ってるところとか、見たことありませんもんねぇ」  早川先生も便乗する。  もちろん新任の頃はあったよと先生は生真面目な顔つき答えた。あ、でも、とおしぼりで手を拭いながら、思い出したように笑う。 「そういえば大学4年の教育実習のとき、担当教官に言われたよ。『君はベテラン教師みたいに落ち着いてるね』って。実習日誌の総評にも同じようなことを書かれて、それを読んだゼミの教授に笑われたよ」  千秋たちが同じように声をたてて笑った。 「褒め言葉じゃないですか」 「いや、あれは嫌味だと思うけどね」 「……笹原先生はどうして、教師になったんですか」  千秋は前から温めていた質問かのように、はっきりとした声でたずねた。 「理由といわれても……うちは両親とも教師だったんだ。だから何となく。でも教師になれなんて一度も言われたことないよ」 「言わないにしても、喜んでるんじゃないですか。自分たちと同じ仕事を息子が選んだんだから」 「どうかなあ。兄は医者になったんだ。医大に受かった時の両親の喜びようとは比べものにならないよ」  えー、お医者さんなんだぁ、すごいすごいと勝手に盛り上がる。どこの病院にいるんですかとか、何科ですかと質問が飛びかう。  お兄さんは独身ですかと早川が聞くと、もう結婚して子どももいるよと、先生はそっけなく答えていた。  やっぱりお医者さんは結婚が早いよね。うちらには縁のない話だよ、などと千秋たちは女子ならではのトークで盛り上がっていた。 (……先生が教師を選んだ理由、もっと聞きたかったな)  歓迎会も後半に差し掛かったころ、千秋と早川は校長たちに挨拶しに行かなきゃといって重い腰をあげた。  笹原先生とふたりきりという状況に、ニコは伏せた目線を机の上でさまよわせる。彼が飲んでいるレモンサワーのグラスはまだ半分も減っていない。あまりお酒は強くないみたいだ。  ニコは氷が溶けきったハイボールのグラスに付いた水滴を、おしぼりで拭いてから一気に飲み干した。
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