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初恋
初めて見た先生の姿が、一枚の写真のように今でもはっきりと浮かぶ。
あれは7年前の初夏、朝寝坊して伊織と飛び起きた。弟にとっては小学校最後の運動会の日だった。
とてもじゃないけど弁当を作るには間に合わない。昼までに届けるからと約束し、不機嫌な弟をなんとか送り出した。
特大のツナマヨ入りおにぎりに、濃いめの味付けの唐揚げ。できたて熱々のおかずたちを弁当箱に詰め、前カゴに入れてから自転車を思い切り漕いだ。
真っ青な空の下、小学校の校庭は子どもたちの歓声と熱気に包まれている。いくつものテントや旗が立てられ、まるでお祭り会場みたいに賑やかだった。
リレーだろうか、低学年の子どもたちが転がりそうな勢いでコースを駆けている。思ったよりスピード感があって視線が吸い寄せられた。バトンは次々に上級生へと受け継がれていき、それにつれ声援も大きくなっていった。
「さあ! チーム対抗リレー、6年生にバトンが渡されました!」
(あれ、伊織だ……!)
黄色のバトンを受け取り、走り抜けていく弟の姿。息をはずませ歯を噛みしめて、大げさなくらい腕を振って。追い上げてくる他の走者から逃げ切り、白いゴールテープを切った。
よっしゃー!と叫びながら拳を突き上げる弟に、まわりの子どもたちは遠巻きに怖々と見つめている。
無理もない。6年生の中でもボス猿みたいな存在で、体格も一際大きい伊織は、先生達だって扱いあぐねているくらいなのだから。
そんな伊織に駆け寄って、肩を支える男性の姿があった。ふたりは親しげに言葉を交わし、優勝の喜びを分かち合っているみたいだった。
ひときわ高い背丈に、彫りの深い引き締まった横顔。
額は汗ばみ、頬は燃えるように赤かった。
(あれが、笹原先生――――?)
その人はスターターピストルを空へと掲げた。校庭全体に破裂音が響き渡る。その衝撃に、ニコは全身を撃ち抜かれた。
文字の中でしか存在しなかった憧れの人が、魔法のように現実世界に現れたことに甘い目眩を覚えていた。笑った時にだけ見える歯の白さが、脳裏に鮮やかに刻まれて。
彼に触れたいとひたすら願った。
男とか女とか、そんなことどうでもよくて。
これが恋だと、まぎれもない恋だと、誰にも教わっていないのに心が叫んでいた。
だけど……ありえないほど遠い先生との距離を自覚するのに時間はかからない。抱えきれない感情の重みに耐えかね、気づけばその場にへたり込んでいた。
「……どうした? 調子悪くなっちゃった?」
軽やかな声に驚いて見上げると、50代くらいの中年の女性と目が合った。つばの広い帽子を目深にかぶり、スポーツウェアを颯爽と着こなしている。
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