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「いえ! 大丈夫です……」
その女性は暑いから水分を取りなさいねといって、救護室と書かれたテントからペットボトルの水を持ってきてくれた。よく見ると首からIDカードを下げている。
「あの、先生……ですか?」
「私はこの学校の校務員なの。先生が一年で一番忙しい日に、こんなところでウロウロしてるわけないでしょ」
そういえば小学生の時、校務員のおじさんがいたことを思い出す。弟に弁当を渡したいと彼女に伝えると、6年生のいるテントへと案内してくれた。だが伊織の姿は見当たらない。
弟の名前を聞かれたので、素直に6年2組の「渡邉伊織」と答えた。彼女はあらぁ、と甲高い声をあげ、顔を覗き込んできた。
「あなた、伊織君のお兄さんなの?」
これだけ規模の大きな小学校で校務員にまで名前を知られるほど、伊織は悪名高い問題児なのかとネガティブな想像が浮かぶ。
「もうすぐお昼だけど……まあ、お腹空いたら教室には戻ってくるでしょう」
アイツは糸の切れた凧だ。学校内でもよく行方不明になっているらしい。いつもすいませんと謝ると、彼女は笑って応えてくれた。
「お礼をいうなら担任の笹原先生にね。彼を追いかけてるのはいつも先生だから」
さっき見た先生の笑顔が心に浮かんできて、やるせない気持ちになる。伊織が笹原先生に迷惑をかけているのは、あきらかだったから。
「いいわ。私が6年生の教室まで届けてあげる。今なら手が空いてるし」
「ありがとうございます」
子どもたちは昼食は教室で食べる決まりになっているらしく、彼女に弁当箱を手渡した。
「あ、ちょっと待って、笹原先生だわ! ちょうどよかった。笹原先生ー!」
彼女が大きく手を振って人ごみの中から大声で呼ぶその先に、笹原先生の姿が見えた気がした。そのことにハッと気づいた瞬間には、ニコの足は駆け出していた。
僕が伊織の兄です、だなんて名乗り出る勇気がなかった。逃げ出したのだ、自信のなさと恥ずかしさに耐えきれずに。全速力で校庭を走り抜け、離れた木の植え込みからこっそり振り返った。
自分の作った弁当の手提げを持って、校舎に向かう笹原先生の後ろ姿は今でも忘れられない。
(先生ごめんなさい、逃げてしまって……)
帰りは自転車を漕ぐ気力もなかった。今ごろ、各学年のダンスを披露している頃だろうなどと想像しながら、足をひきずるようにして家路へとついた。
「弁当……」
夕方、伊織が家に帰るなりぽつりと言った。台所で洗い物をしていたから、よく聞き取れない。
「え、なに、なんて?」
「だから、弁当うまかったって言ったの!!」
あっけにとられて固まっているうちに、伊織は玄関を出て行ってしまう。
「晩飯までに帰ってこいよ!!」
背中に浴びせた大声が伝わっているかは分からない。伊織から感謝されるなんてこと、初めてかもしれない。
なんだか嬉しいような、くすぐったいような、ふわふわした気分のまま風呂場に向かった。
熱いシャワーの水流を顔に浴びながら目を閉じた。少しだけひりつく肌の感覚に、日に焼けたのだと実感する。たった数時間外にいただけなのに。
笹原先生もきっと一日中外にいて、真っ赤に日焼けしているのだろうなと、彼の横顔が浮かび上がってくる。それだけでドクドクと心臓の音が激しく鳴った。
触れたいと願えば思うほど、その距離は遠くて。
苦しいような切ないような、もどかしい感情が腹の奥にぐずりと込み上げてきて、シャワーを冷水にして激しく浴びせた。
まとわりつく水流を顔にも胸にも打ちつけて、なんとか気を逸らそうとしたけど、無駄だった。
持て余すほどの情欲に身を震わせた。
熱のこもった声がシャワーの音にかき消される。
白い汚濁は自己嫌悪とともに排水溝へと流れ去っていた。指先がふやけるほど時間が過ぎた頃、しゃがんだまま頭を抱えた。
「先生、ごめんなさい……」
風呂場のくぐもった湿った部屋に、哀しい言葉だけが響いた。
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