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3.薫風
5月末の週末、笹原は県境をまたがる山の麓にいた。なだらかな山容は、きらきらとあかるい朝の顔をしている。
「良い天気ですね」
千秋が気持ち良さそうに車の窓を開けて風を受けている。笹原がバックミラー越しに覗くと、後部座席にあの青年が借りてきた猫みたいにちょこんと座っていた。
(なんでこんなことになったんだっけ――)
千秋と趣味の話になって、私も山に連れてって欲しいと頼まれたのは、歓迎会のあとふたりで飲んだ店でのことだった。
どうしようか迷ったが、ふたりでは行けないとその場で断った。登山となると一日中ふたりきりで外で過ごすことになる。保護者や卒業生などの知り合いに出会ったりすると、色々と説明が面倒だったから。
それに田舎嫌いの千秋が、山に登る姿なんて想像がつかなくて。
でも千秋は諦めなかった。
今度はニコを誘ったと言い出してきた。3人ならいいでしょ、という千秋の言葉に断る理由が見当たらない。それに……山に登るのは初夏の絶好の季節だったから。半分は山の誘惑に負けたのだ。
登山といっても、小学校から1時間ほど山道を走れば登山口に着く近場の山だ。登山者用の駐車場が狭いので小学校で一旦集合し、笹原の車で千秋とニコを乗せて走ってきたのだった。
山自体は1000メートルを少し超える標高だが、登山道がしっかりと整備され、晴れていれば山頂から北アルプスが一望できるということで、地元の人に人気の山だ。
笹原はザックを草地に下ろし、サイドブレーキがかかっているのを確かめてから車のキーを抜いた。
「お待たせしました!」
「もう行ける?」
トイレから戻ってきた千秋とニコの姿を見比べた。遠足の時みたいな黒いジャージ姿の千秋に、作業着であろうカーゴパンツをはいたニコ。どちらもいかにも初心者といった軽装だった。
『山に登りたいなら、靴だけはしっかりしたの履いてきて。それが連れて行く条件』
そう宣言して釘をさしておいた。山では自分の足だけが頼りだから。いくら低山といっても、足元の怪我は想像以上に多い。
ニコの足元には、くるぶしまで高さがあるミドルカットのシューズが、新品ですといわんばかりに輝いていた。
「その靴、今日のために買ったの?」
「はい、先生が靴は良いの履いてきてって言ってたので、買いました」
ニコは弾けたように笹原を見上げて、瞳を輝かせていた。
いくら千秋の付き添いとはいえ、ご苦労なことだ。千秋が再度登山を提案してきた時、ニコを誘ったと聞いて驚いた。確かに彼なら体力もありそうだし、山に連れていくにはうってつけかもしれない。
でも、ふたりとも自分に告白してきたはずの人物で……このメンバーに違和感を感じるのは、ただの自意識過剰だろうか。
笹原は登山届を千秋に渡した。登山者の住所氏名、登山ルートを書いて提出するものだ。遭難時などの緊急事態に、この届けを元に捜索されることになる。
ひとりで登るときは念のためと毎回提出していた。グループで登るときはよっぽど安全だとは思うが、いつもの癖でとりあえず用紙をもらっていた。
千秋は用紙をまじまじと見つめながら質問してきた。
「登山届なんて初めて書きます。出さなきゃダメですか」
「トイレの入り口に行方不明者捜索の張り紙、なかった?」
「あー、見たかも」
「こんな低山でもさ、毎年違う張り紙が貼られてるんだよね」
「やだ、怖い怖い」
「めったにないことだけどね」
唖然として固まる千秋に、淡々と続ける。
「住所と氏名とか書いてくれたら、残りは書くから」
文句をいいながらも千秋は書き終え、ニコにボールペンと用紙を渡した。
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