3.薫風

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「山頂までどのくらいかかるんですか」  千秋はリュックを担ぎながら意気揚々とたずねた。 「往復で4時間くらいかな。休憩時間が長いともっとかかるけど」 「大人の遠足って感じですね。笹原先生、引率お願いします!」 「ちょっと千秋先生、仕事の気分にさせないでくれる?」 笹原は登山道の入り口に設置された、登山届の提出ポストへと向かった。二つ折りにした用紙を、ポストに差し入れようとして手を止めた。 そっと振り返ると、千秋とニコは登山道が記された案内看板を見ながら楽しげに笑い合っている。笹原は持っていた登山届を半分に折り曲げ、シャツの胸ポケットへとそっと押し込んだ。 「ニコが先頭ね。私が真ん中、笹原先生はリーダーだから一番後ろね!」 「はい」 「しゅっぱーつ!」 登山道に入るとすぐ、丸太で組まれた急な階段が現れた。そういえば序盤はひたすら急登だったなと記憶を掘り起こしていた。  5月末とはいえ気温は20度近い。連続する階段に、あっという間に心拍数はあがり、汗が噴き出してくる。笹原は羽織っていた上着を脱いだ。  ニコは身軽な足取りで駆け上っていき、もう姿が見えなくなるほど先へと進んでいる。対照的に千秋は少しずつ足取りが重くなっていった。 「ニコちゃん速過ぎない?」 「千秋先生、ちょっと休んだら」 「いいえ、まだまだ! 私が山に行きたいって言い出したんだから」  チャレンジ精神は褒めてやりたいが、体がついていけてないらしい。千秋は立ち止まってぜいぜいと荒くなった息を整えていた。 「笹原先生、先行ってていいですよ。あとから追いつくから」 「引率なんだから、置いてはいけないよ。もう少し行くと四合目あたりに休憩所があったはずだから、そこまで頑張ろう」  千秋は苦しげに息を継ぎながらも、真剣な声で言う。 「先生ってプライベートでもそんなに優しいんですか。疲れません? そんなに他人のこと受け止め続けて。わがまま言ってもいいんですよ、大人同士なんだから」 振り返った千秋は、むくれたような寂しげな笑顔を向けていた。 「先生は私とふたりでいる時も、学校にいる時と同じ顔してる。今だってそう、私には気遣ってくれるけど……だからどうやって攻め込んだらいいのか、正直悩んでます」 「そんなに壁がある? 自分じゃ意識したこともないよ」 「分厚い壁ですよ。ホントの先生にはいつ辿り着けるのやら。でもまだ諦めたわけじゃありませんから!」  千秋はふたたび歩き出した。最初よりは歩くペースを掴んだみたいだ。リズミカルに揺れる千秋の赤いリュックを目で追いながら、笹原は考えを巡らせていた。 子どもに対しては壁なんてないと自信を持って言える。でも大人はどうかと聞かれれば自信がない、ましてや恋愛なんて。いつからだろう、こんなに誰かと距離を縮めるのに臆病になったのは。  ただ今は、もう少し自分のペースで歩きたい、走り出したいような衝動に駆られているのは確かだった。休憩所まではもうそんなにかからないはずだ。 「お言葉に甘えて先に行ってもいい? 休憩所のベンチで合流しよう」 「いいですよ、すぐに追いつきますから」 「気をつけて来て」  そう告げてから千秋の背中をゆっくりと追い抜いた。
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