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ベンチに姿を現した千秋は、肘を押さえながら苦痛に顔をゆがめていた。
なんでも広場に向かう途中で案内看板を見ようと近づいた途端、腕に激痛が走ったらしい。痛むという肘のあたりを確認すると薄らと赤く腫れている。
「……これ、蜂に刺されたんだと思いますよ」
ニコが自信ありそうに答えた。
「やっぱり?」
「千秋先生、もう少し袖めくってください。水で流しますから」
「ごめんね、ニコちゃん」
ニコは持っていた飲料水のボトルで、手際よく千秋の肘から先を水で念入りに流した。
「刺された痕はありますけど、針は残ってないですね。蜂は見ました? でっかいスズメバチじゃないですよね?」
「多分違うと思う。黒っぽい虫が一瞬、飛んでった気がするんだけど」
「千秋先生、気分はどう? 息苦しかったりしない?」
蜂に刺されると強いアレルギー反応でアナフィラキシーの症状が出ることがある。唇や舌が腫れてきて、次第に呼吸がしずらくなって、ひどいときには心臓や呼吸が止まる。
千秋の顔色は多少赤かったが、普段と変わりないことに笹原は安堵した。
「痛みますけど、気分は全然悪くないです。すいません、私の不注意で」
「いいよ、そんなこと気にしないで」
できる限り冷やしてください、とニコは凍ったスポーツドリンクのボトルをタオルに包み、千秋の腕に当てた。
「この季節、巣作りを始めるために、蜂の活動が活発になってくるんです。あいつらこんなとこにも巣を作るつもりなんですね」
「ニコも蜂に刺されたことあるの?」
ペットボトルを肘に当てながら、千秋が尋ねた。
「何度もありますよ。あいつら雨のあたらない植木の中とか、屋根の下に巣を作るのが大好きなんですよ」
「ニコの天敵なんだ」
ニコの憎々しげな言葉遣いがおかしかったのか、緊張した顔をしていた千秋が頬をゆるめた。
30分近く経って休憩していた他の登山客もすでに出発してしまい、広場はすっかり静かになっていた。
「ひどくはなってないけど、まだ腫れるかもしれない。これ以上登るのはやめておいた方がいいかもね」
「えー!! せっかく来たのに」
「また来ればいいよ、山は逃げないから。送っていくから一緒に下山しよう」
笹原の提案に千秋は肩を落としたが、すぐにハッと顔をあげた。
「ねえ、ニコだけでも登ってきたら? せっかく来たんだもんね」
「え? あ、ひとりでですか?」
「笹原先生、ここから先は一本道なんでしょ?」
「たしかにそうだけど……」
ニコは戸惑ったように立ち尽くしていた。しばらく笹原と千秋の顔を見比べながら視線をさまよわせ、遠慮がちに答えた。
「……じゃあ、せっかくなんで登ってきます」
「頂上に着いたら電話して。帰りは登山口まで迎えに行くから。あ、連絡先知らないんだった。教えて」
ニコが慌ててポケットを探る。たどたどしい指使いで笹原と電話番号を交換し、念のためメッセージアプリの連絡先も交換した。
「怪我だけは気を付けなよ」
神妙な面持ちでうなずくニコに、あ、そうだと、笹原は担いでいたザックを下ろす。左右に付いている大きなポケットから、小さな羊羹と平たい箱に入ったアーモンドチョコレートを取り出した。
「よければおやつに食べて」
「いいんですか、こんなにもらって」
「僕たちの代わりに、しっかり頂上の景色を眺めてきてよ」
彼の手のひらに半ば強引に乗ると、ニコは焦ったように受け取り、何度も礼を言った。
「ニコちゃん、ごめんね。頑張ってね」
「はい、千秋先生もお大事に」
笹原は千秋のリュックを預かり片側の肩に担ぐ。
「じゃあね、ニコ!」
千秋が手を振っていた。
階段を下る直前で笹原が振り返ると、彼はまだこちらを見つめたまま、ふたりを見送っていた。今生の別れでもないのに、寂しげに手を振って。
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