1.春の光

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 校庭は傾きかけた陽の山の影になっていて、すでに半分ほどが(かげ)りはじめていた。  青年は笹原の影のようにぴったりと後ろに付いてくる。横に並ばないのかと笹原は気にとめたが、初日だから緊張しているのだろうかと、何もいわなかった。  校内を順に歩き、鍵がかかっているか確認していく。  体育館の暗幕カーテン裏の出入口、男子トイレの窓、よく閉め忘れる場所も教えた。彼は学校を守る者の一員として自分のやるべき仕事を早く覚えようとしているみたいだった。  残るは3階の音楽室だけだ。中に入ると、開け放たれた窓がふわりと黒いカーテンをなびかせていた。  いつもどこか開いている、間違い探しみたいに。  窓を閉めている彼の背中を見つめた。  校舎に入ってから彼は頭に巻いていた手ぬぐいを取っていた。つぶれた短い髪のてっぺんに付いていたのは、小さな葉っぱだった。  玄関の生垣に植えられている、ドウダンツツジの若葉みたいだ。朝からあの茂みに頭を突っ込んでいたんだろうか。そんな彼の姿を想像しておかしくなる。 「ちょっと止まって、葉っぱついてる」  笹原は腕をのばし、つまみあげた。 「ほら、取れたよ」 「あ、ありがとう……ございます」  手のひらに乗せた葉を見て、彼は丁寧に頭を下げた。その頬は桜色に染まっているように見えたけど、夕陽が当たっていただけかもしれない。 「さぁ終わったよ。あとは帰る時に防犯の装置を付けて帰るだけ。君も初日でしょ、今日くらい早く帰ったら?」  すべての施錠を終え音楽室を出ようとした時、背中越しに名前を呼ばれた。 「笹原先生――――」  その掛け声はずいぶんと言い慣れているように聞こえた。  何度も何度も親しみを込めて発せられた言葉。聞けばすぐにわかる。今日初めて会ったからそんなはずないのに。  ただの勘違いだなとおかしくなって、頬を緩めたまま振り返った。 「なに?」  彼は黒目がちな瞳を一心に向け、若い唇を開いている。まばたきもせず、スーツ姿の笹原をとらえて離さなかった。 「どうしたの?」 「……好きです」  思わず聞き返す。 「なにが?」 「笹原先生が好きです」 (笹原先生って、僕のこと……だよな?)  突拍子のない発言は子どもたちで慣れているから、表情はいつも通りだっただろう。だが頭の中はハテナで埋まっていた。  学校で教え子の女の子たちから告白されたことは何度もある。教師への恋は麻疹(はしか)みたいなものだ。早い子は小学生でもかかる。ありがとう、とそういうときは感謝を伝える。つまらない自分のことなどすぐに忘れて、さっさと明るい未来へ進んでいってくれと願いを込めて。  だが大人は――しかも相手は男で、会ってからまだ数時間しか経たない人間から告白されたのは初めてだった。  彼とは今までに会った記憶もないし、ましてや教え子でもない。まさか葉っぱを取ってあげただけで、惚れられたわけでもないだろう。 「……どういうこと?」  目の前の彼の顔色がはっきりと青ざめていく。  瞳は星座みたいにきらきら光りはじめ、眉を寄せて唇を噛んでいる。 「え、いえ、あの、す、す……い……ません」  素直で分かりやすい子だな、などとうわべだけで理解したつもりになっていた。それはただの自分の思い上がりで。  子どもたちと接するうちに、どの子がどんな性質を持っているのか探りながら話すのが癖になってしまった。  得意不得意は? 家庭環境は? 仲の良い友達は?  教師なんて、なんでも分かっているような顔をして、心の一番やわらかくて痛々しいところに、ずけずけと土足で上がり込む仕事なんだ。  でも、彼との関係は今日始まったばかりのはずだった。真っ白なノートには、まだ彼の名前すら刻まれていない。  もしかしたら永遠にまっさらなままかもしれない、誰かがページを破ってしまえば書くことすらできないのだから。 「……お先に失礼しますっ」  階段をかけ下りる足音を耳で捉えていたのに、追いかけようとは思わなかった。  なんだったんだろう、一体。  彼の名前、なんて言ったっけ?  朝、職員朝礼で聞いたはずなのに、確か――。  仁科(にしな) (こう)。  ニコとあだ名を付けられた彼の名に、これから一年の間振り回されることになるなど、この時の笹原は思いもしていなかった。
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