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「どうしても頂上まで登ってみたかったんです……電話しようと下山し始めた時には圏外になってしまって」
まさか自分が頂上を見てきてなどと伝えたから、無理して登ってきたのだろうか、彼ならやりかねない。 それに加え、雨でぬかるんだ登山道に足を取られ、思ったより下りるのに時間がかかってしまったようだ。
「で、山頂まで行けたんだ?」
「はい登ってきました」
笹原は持ってきていたタオルを貸したが、そのタオルが絞れるほどニコは全身ずぶ濡れだった。雨合羽を脱いでも、下に着ていたシャツまで雨が染みている。
「千秋先生は無事に帰られたんですか」
「さっき家に着いたと連絡があったよ。傷口も悪化してなかったから大丈夫だと思う」
「ひどくならなくて良かったです」
車の助手席に彼を座らせ、荷物を後部座席に放り込んだ。
もうすぐ6月とはいえ、これだけ濡れれば寒いだろう。彼の唇も顔色も青ざめ、小刻みに震えているようだった。
「暖房入れたけど、まだ寒かったら言って」
「はい、大丈夫で……」
返事の代わりに大きなくしゃみをした。申し訳なさそうに袖で口を押さえている。ねえ、と笹原は口を開いていた。
「うちで着替えてく? そんな濡れたままじゃ風邪ひくよ」
「え?」
「ここからなら小学校より家のが近いし」
そのまま返すのは気が引けた。彼をひとりで行かせたのも、頂上を見てきてと無茶を言ったのも自分だ。
シートベルトに手をかけた姿勢のまま、彼は戸惑ったように黙り込んだ。なんかマズいことを言ってしまったかもしれない。
「大丈夫です。濡れるのも汚れるのも慣れてますから」
「でもさ、そんなびしょ濡れで帰ったら、山のこと嫌いにならない?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
ニコがくしゃっと整った眉を崩して笑った。
笹原は自分がおかしなことを言っている、ということは承知していた。でもそれは本心からの言葉で。
「……嫌いになんて、絶対にならないですよ」
ニコはきっぱりとそう口にしてから、もう一度盛大にくしゃみをした。
「で、家に来るの? 来ないの? 自分で決めて」
「…………行きます」
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