3.薫風

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「どうしても頂上まで登ってみたかったんです……電話しようと下山し始めた時には圏外になってしまって」 まさか自分が頂上を見てきてなどと伝えたから、無理して登ってきたのだろうか、彼ならやりかねない。 それに加え、雨でぬかるんだ登山道に足を取られ、思ったより下りるのに時間がかかってしまったようだ。 「で、山頂まで行けたんだ?」 「はい登ってきました」  笹原は持ってきていたタオルを貸したが、そのタオルが絞れるほどニコは全身ずぶ濡れだった。雨合羽を脱いでも、下に着ていたシャツまで雨が染みている。 「千秋先生は無事に帰られたんですか」 「さっき家に着いたと連絡があったよ。傷口も悪化してなかったから大丈夫だと思う」 「ひどくならなくて良かったです」  車の助手席に彼を座らせ、荷物を後部座席に放り込んだ。  もうすぐ6月とはいえ、これだけ濡れれば寒いだろう。彼の唇も顔色も青ざめ、小刻みに震えているようだった。 「暖房入れたけど、まだ寒かったら言って」 「はい、大丈夫で……」  返事の代わりに大きなくしゃみをした。申し訳なさそうに袖で口を押さえている。ねえ、と笹原は口を開いていた。 「うちで着替えてく? そんな濡れたままじゃ風邪ひくよ」 「え?」 「ここからなら小学校より家のが近いし」  そのまま返すのは気が引けた。彼をひとりで行かせたのも、頂上を見てきてと無茶を言ったのも自分だ。  シートベルトに手をかけた姿勢のまま、彼は戸惑ったように黙り込んだ。なんかマズいことを言ってしまったかもしれない。 「大丈夫です。濡れるのも汚れるのも慣れてますから」 「でもさ、そんなびしょ濡れで帰ったら、山のこと嫌いにならない?」 「そんなこと、あるわけないじゃないですか」  ニコがくしゃっと整った眉を崩して笑った。  笹原は自分がおかしなことを言っている、ということは承知していた。でもそれは本心からの言葉で。 「……嫌いになんて、絶対にならないですよ」  ニコはきっぱりとそう口にしてから、もう一度盛大にくしゃみをした。 「で、家に来るの? 来ないの? 自分で決めて」 「…………行きます」
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