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「どっから持ってきたのこれ」
お風呂あがりの先生が、素っ頓狂な声をあげた。恐竜のぬいぐるみは、4つあるダイニングチェアーのうちのひとつにちょこんと座っている。
「さっきソファーで見つけて、おもしろかったので持ってきちゃいました。先生が買ったんですか」
「いや。いつだったか6年生が修学旅行でおみやげに買ったやつなんだけど。なぜか引き取ることになっちゃってね」
買った子が家に持って帰って親に見せたら、そんな大きなぬいぐるみ邪魔だから返してきなさいと怒られ、大喧嘩になったらしい。
今さら返してこいと言われても無理な話だし、子どももケチのついたぬいぐるみはもういらないというので、先生が引き取ったのだという。
「そういう遺物みたいなものが、この家にはたくさんあるよ」
「これ、恐竜でしょうか」
「多分ね」
「じゃあ、キョーですね。この子の名前は」
「はいはい、君はキョーだって。良かったね、名前つけてもらえて」
先生はキョーの頭をポンポンと軽く叩いてから、くすくす笑うニコの隣に立った。
「手伝うよ」
「いえ、座っててください」
肩が触れるほど近い距離にどぎまぎしてしまう。先生の髪はしっとりとまだ微かに濡れていて、白い首筋は湯上りでほのかに赤らんでいた。洗い立ての肌の清潔感に、つい見とれてしまう。
「ほら、かして」
先生は半ば奪うようにして、沸騰していた鍋にそばを入れた。ぶくぶくと沸いている泡が一瞬沈む。ニコはしかたなく薬味のネギを刻み始めた。
しばらくして湯気のたつお皿がテーブルいっぱいに並んだ。ふたりでいただきますと手を合わせる。えんどうとたっぷりのねぎが乗ったかけそばは熱々で、口の中にやさしい出汁の旨みが広がった。
誰かとこんな風に向かい合って食事をするのは、いつぶりだろう。先生は一皿ずつ味わっては、美味しいと褒めてくれた。ふたりとも思ったよりお腹が減っていたみたいで、あっという間にお皿は空になってしまった。
「そういえば、聞きそびれたんだけど」
食後のお茶を煎れてくれた先生が、何気なく聞いてきた。
「お母さんが漫画家ってほんと?」
「え? あ、えぇ」
ニコは湯飲みを受け取りながら、一瞬、答えに詰まった。どう説明しようか迷ったから。
「母はたしかに漫画家です。ただし、R18がつく方の――ですけど」
「それって、ずっと前から?」
「僕が小学生の頃にはもう仕事してましたね」
「子どもには刺激が強すぎない?」
様々な事情のある子どもの家庭を見ているのだろう。驚きもせずに質問を重ねる先生の口調に、つい心を許してしまう。
「とにかく怖かったですよ、母の仕事場には近づきませんでした」
母親が使う大きなパソコンのディスプレイに映し出された画面には、いつも男女が裸でもつれあっていた。苦しそうに叫ぶような絵柄が子どもの頃おぞましくて身震いしたっけ。
「でも……高校生くらいになってからでしょうか。ようやく母の仕事なんだって認められるようになったんです」
自分が成長するにつれ、母の漫画がそこそこ売れているらしいということに気づいた。漫画家一本で、貧乏なりにも家族3人なんとか食べていけるのだから。
(高校一年の時に先生に出会ったんだ――)
湯飲みを持ったままぼんやりするニコに、先生は何気なく聞いた。
「ニコが高校生か。学校、楽しかった?」
「……いえ、いつも悩んでました。入学してからすぐに教室で声が出せなくなってしまって」
「声が出せないって、どういうこと?」
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