4.雨に濡れて

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「……母の漫画の単行本を、祖母に送ろうと学校に持って行ったんです」  母がこの半年間、全精力を注いで描いた作品だった。出版社のホームページ上で描き始め、人気が出たからと紙の本で出版されることになったのだ。 絵面の毒々しさと肌の露出はそのままに、ストーリーに王道の恋愛を散りばめた母の漫画は、女性にも受け入れられた。  きっと、ばあちゃんなら母の新しい漫画を読んで笑い飛ばし、スナックの常連客にも宣伝してくれるだろうと思って、入学祝いのお礼に買ったのだった。  それが掃除の時に、ニコの机の中から落ちたのだろう。掃除当番の女生徒が拾って、その漫画本を教卓の上に置いた。気づいた男子生徒が、エロい漫画があると一斉に騒ぎ出したという。 「生徒達の騒ぎ具合が、目に浮かぶよ」 「僕は……事の重大さが飲み込めていなかったんです」  担任が教室にやってきて、誰が持ってきたのかと問い詰めた。ニコは少し躊躇したあとに名乗り出た。祖母に送りたかったし、本を買い直すお金もなかったから。  矢のように突き刺さるクラスメイトの視線と、担任の見下しきった薄笑いは忘れない。 「こんなもん愚か者が読むもんだぞ――」 ニコは震えるこぶしをぎゅっと握りしめた。母が徹夜で仕事をこなす、丸い背中が思い浮かんだから。 こんなものを描く母親も愚か者ですか。 母が得た原稿料で高校の授業料を払っている自分も、愚か者ですか。ニコは必死に声を絞り出した。 「それは……母の描いている漫画です」 担任の顔が侮蔑にゆがむ。 「は? ――もうちょっとうまい嘘つけよ」  豪快に笑い飛ばし、つられるように周りの生徒達の笑い声が教室に響いた。 (嘘じゃないのに――)  自分の言葉なんて信じてもらえないんだと確信した。喉が詰まって鼻の奥がツンとする、心の中の堪えていた何かが崩れ落ちていくみたいだった。  本当の地獄は次の日からだった。  「エロい」漫画を学校に持ってきた目立たない男子高校生の噂は、あっという間に学年中に広まった。  朝、扉を開けて教室に入った瞬間に、騒がしかった同級生たちの話し声がぴたりと止むのだ。自分の噂をしていたことは明白だった。席についてから、遠くでくすくすと笑う声がする。「キモい」とささやかれている気がした。  一限目の数学の授業で、先生に当てられた。  答えはノートに書いてあったのに、何度唾を飲み込んでも、咳払いしてみても、気持ちが焦るばかりで声にならない。 「先生に怒鳴られても、声が出ないんです。息苦しくなってきて……」 「特定の場所でだけ言葉が出ないっていう子はいるね。だいたいは心理的な原因でね」 「そういう子、他にもいたんですね」  透明人間になっているみたいだった。「しゃべらない大人しい男子生徒」として認識され始めた頃、すでに教室は自分の居場所ではなくなっていた。 みな当たり前のようにするりと隣を通り抜けていく。自分に声をかけてくる人間は誰もいなくなっていた。  担任ですらあの日から一度も声を掛けてもこない。  ただ目立たない生徒が、無口になっただけ。  いじめられているわけじゃない。なのにどうしてこんなに孤独なのだろう。どうしてこんなに辛いのだろう。昼休みに教室にいられなくなって、中庭の木の下に逃げ込んだ。そのうち弁当を食べる気力がなくなり、持っていくのをやめた。 先生は少し不安げに尋ねた。 「誰かに助けを求めなかったの?」 「友達になってくれた人がいて……その人に悩みを聞いてもらううちに分かったんです。教室だけが自分の居場所じゃないってことに」 「良い友達ができたんだね」 「その人が僕を、救ってくれました」 (……それが笹原先生でした)  言えそうで言えない、そのひとことが。 先生は何も事情を探ろうとはしない。そんな優しさに甘えているのは自分の方なのに。 「あの、洗い物しますね」 「それくらいやるよ。自分の荷物まとめといて。片付けが終わったら学校まで送っていくから」  先生が片付けをしている背中を見つめながら、ニコはソファに腰を下ろした。再び雨が降り出したらしい。雨音が屋根や庭の草木に当たって、心地良いリズムを刻んでいた。  やっと一日を終えたという安心感と満腹に押され、まぶたが猛烈に重くなってくる。いつの間にかソファでキョーのぬいぐるみを抱いたまま眠ってしまっていた。 「ニコ、そんなとこで寝てると風邪ひくよ」 「……うん」 「ほら起きて? もう10時だよ」  低く響く声が耳に触れる。 寝ぼけながらも、肩に置かれた広い手の平のぬくもりを感じていた。けれど体も頭も自分のものじゃないみたいにずっしりと重い。 深いため息とともに、背中がふわりと浮いて、柔らかいところに寝かされた。 「……先生、ごめんなさい……」 そうつぶやいたところまでは、なんとか覚えている。
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