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「なぁ、だからこそ俺の結婚式には出ろよ。忘れろとは言わない、でも前に進めよ。祝ってくれよ、俺たちのこと、な?」
「もちろん……結婚おめでとう、幸せになれよ」
「今祝ってどうすんだよ!」
不意打ちみたいな温かい言葉に、結婚するという実感がじわりと湧いてくる。いやいや照れてる場合じゃない。話題を変えようと、藤堂は残ったもうひとつのメモ用紙を、笹原のグラスに前に差し出した。
「ほら、頼まれたヤツ」
「……調べてくれたんだ」
「苗字は違うけど、光って名前の卒業生はいた」
「ほんとに?」
笹原の表情がぱっと明るくほころんだ。
「貴重な時間を使って調べたんだ。納得できる説明をしてくれよ」
取られそうになったメモ用紙を、ひょいと手前に引っ張った。笹原はたいして悔しそうな顔もせずに、少しだけはにかんだ。
「今日の分は奢るから、聞かないでくれない?」
「そうやって言われると余計詮索したくなる」
笹原は別にたいしたことじゃないんだけど、と前置きしながら白状した。
「今年から、校務に若い男の子が入ったんだけど」
「その子がこのメモの子? なに、なんか問題なの?」
「会った初日に……告白された」
「はぁっ!?」
大きい声を出しすぎて、カウンターにいるお客さんがすべて振り返った。藤堂は何度も頭を下げてから、笹原はため息をついてようやく口を開いた。
「告白なんてしてくるってことは、少なくとも僕は彼と接点があったはずなんだけど……考えれば考えるほど分からなくなるんだ」
「で、そいつの素性を知りたいってわけか。俺なら脅してでも問い詰めるけどな」
「あの子は脅しても言わないよ、きっと」
「仲良いの? そいつと」
「……多少はね」
「お前が多少っていうなら、よっぽど気を許してんだな」
「あのね、そんなこと一言も言ってないでしょ」
イソップ寓話の「北風と太陽」なら、笹原は太陽だ。旅人が自らの意志でコートを脱いで降参するまで暖かく照らし続けて待つつもりだったんだろう。
でもそんな聖人みたいに待ってはいられなくなったわけだ。親しくなればなるほど、相手を知りたいと思う気持ちに蓋はできない。
「……名前は、渡邉 光。当時の住所は学区内の県営住宅だな。卒業したのはちょうど10年前。今は22歳か」
「読み上げなくていいよ……って、渡邉?」
笹原にメモを奪われ、中身を一瞥してすぐに聞いてきた。
「なんだ。調査票のコピーじゃないの?」
「あんな個人情報の塊みたいなの持ち出せるかよ。で、男の子の正体は分かった? その顔じゃ、もう大体見当はついてるんだろ?」
「はっきりしたら報告するよ。適当なことは言えないから」
淡々と話す笹原の様子に安心しかけたが、ジョッキをあけるスピードがやけに速くなったことに藤堂は気づいていた。店員を呼び止めて、お茶を頼む。まだ飲めると笹原は抵抗したが、酔うと面倒くさいことになるからと止めた。
ふくれた面のまま緑茶をすする笹原に、藤堂は告げた。
「いいんじゃない付き合えば? 気になるんだろ、この子のこと。俺に調べさせるくらいにはさ」
笹原はゆっくりと首を横に振った。
冗談だろ、といつものように反論してくるかと思ったが、ずいぶん神妙な顔が返ってくる。
「近くで見てるとハラハラするんだ、あぶなっかしくて。完全に子どもを見るのと同じ目線だよ。それに……若い男だよ?」
「男とか女とか、今さら関係ねぇだろ。もっと人生楽しめよ」
「楽しんでるよ? それなりに」
「それなりじゃダメなんだよ! 涙が出るほど幸せになるんだよお前は! ……俺みたいに!」
「はいはい、ごちそうさまです」
「掴むんだよ、幸せは!」
「分かった、分かったから叩くなって」
肩を叩く力のこもった藤堂の手の平にも、飄々とした顔でかわす。幸せねえ、と湯呑みを回しながら笹原はつぶやいた。
「でも正直さ」
「なに?」
「恋ってどうやってするんだったか、思い出せないんだよね」
藤堂は肩をヒクヒクと震わせ、引きつったように笑った。
「俺も分かんねーわ、愛しか知らないから」
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