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「先生、青ですよ! 信号!!」
笹原はあわててアクセルを踏んだが、後続の大型トラックに盛大にクラクションを鳴らされてしまった。
「もー、しっかりしてくださいよ」
「ごめんごめん」
助手席に座る同僚の千秋遥菜が笑いながらたしなめた。午後、空き時間に外出したいことを教頭に告げると、こまごまとした筆記具などのおつかいを頼まれた。話を聞きつけた千秋も行きたいと言うので、笹原が車を出したのだった。
「ノート、いいのありました?」
「なんとかね。新学期からぼけてるよ、ほんと」
「子どもたちと交換日記する余裕なんてよくありますよね。私にはとても」
「まぁ、半分は自己満足みたいなもんだよ」
来週の月曜から今年度の授業が始まるというのに、交換日記用のノートを用意していないことに気づいたのは、入学式が終わり来週の授業の準備をしていた頃だった。
教師になってかは毎年かかさず続けてきた、子どもたちとの交換日記。初任の頃からクラス全員へ毎日返事を書いていた。
ノートを買い忘れた事に気づいた時、今年はやめてしまおうかとも頭をよぎった。別に強制されてるわけでもないし、返事を書く手間を考えたらやらないほうが楽に決まっている。
けれど、ふだん発言の少ない、いわゆる目立たない子どもたちと他愛のない会話ができるのもノートの上だけだったりする。そういう子のつぶやきや、思いがけない発想に直接触れられる文字でのやりとりが好きだった。
山間の薄暗いトンネルに入ると、暗闇に浮かぶ対向車の光が、蛍のようにあらわれては通りすぎていく。
頭がぼんやりしてる理由は明らかだった。昨日の彼の言葉が、頭から抜けないだけ。素直に日焼けした肌に陰影を含んだ瞳。澄んだ眼差しは向こう側の景色まで透けそうなほど。
……好きです、といわれても。
彼は一体なんなのだろう。
笹原を誰かと勘違いしているのか、それとも昔会ったことがあるのか。だがあんなうら若き青年に好かれるような言動をしたことなど、過去を振り返ってみても一度もない。
こんな仕事をしていると一方的に顔を知られていることはままあることで、多少のことは諦めていた。けれどこんな小さな学校の中で、一方的に好意を寄せられているらしい相手と毎日仕事をするのもどこか気まずい。
トンネルを抜けると視界が明るくひらけた。最初の信号を左折して、なだらかな山道を降りていく。
広大な田畑と民家が点在する道の先、ひときわ高い丘の上に建つのは、笹原たちが勤務する小学校。一学年一クラスが精一杯の小さな、でも地元の人たちにとって大切な場所だ。
先生と呼ばれて8年目、この小学校に来て2年目の春。毎年クラス替えのないこの学校では、子どもたちと保護者の目下の興味は担任の先生が誰か、である。
昨日、5年生の担任が笹原であると告げられ、子どもたちは騒いでいたが、その様子を見ても笹原には何の感慨も湧かなかった。
隣に座る千秋が、不満げにため息をついた。
「子どもたちも最初は大人しいのに、一ヶ月も過ぎるとすぐ緩んできて、人の話聞かなくなっちゃうんですよね。笹原先生いつもどうしてます?」
「僕のクラスのルールは授業中に勝手にしゃべるな、勝手に立ったり歩いたりするなって、それだけだよ」
「それ、最初の授業で言うんですか?」
「うん、あとはぜーんぶ自由。なんでも好きに大いに遊んでいいよって。ダメな時は僕が叱ってあげるからって言うと、みんな笑うんだ。なんでだろう?」
「笹原先生、お茶飲んでる時に笑わせないで」
千秋は子どもたちと同じように、ふふっと肩を震わせた。
こんな小さな学校では、すでに児童全員の名前はもちろん、性格や家庭環境もだいたい把握している。田舎だからか、祖父母や地域の人達に見守られているからか、どの家庭の子どもたちも多少の差はあれど比較的落ち着いていた。
毎年同じことの繰り返し。平凡な己を受け入れ、平穏に過ごせればそれでいい。やるべきことや学ぶことは山ほどあって、充実しているともいえた。
だが過ぎていく日々は何か物足りなかった。
一体、自分はどうなりたいのだろう。
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